山口修司の中辛鉄道コラム”ぶった斬り!!”

新進気鋭の交通評論家が、日常の鉄道ニュースに対し、独自の視点で鋭く切り込みます。

随想〜責任論と技術論-尼崎JR脱線事故10年

あの事故から今日で10年になります。

おそらく、刑事事件としては、最高裁で上告棄却となると思います。私は7年前に不起訴になるだろうと論じました。私の予想が外れ、第二審まで行ったのは、検察審議会が強制起訴したからで、元々の検察判断は不起訴でした。理由は7年前の投稿で詳述したのでそちらもお読み戴ければと思いますが、過失要件を満たさないからです。「誰も責任を問われないのか」という意見がありますが、刑事責任を問われるということは、殺人罪が適応されるということです。例えば、高速バスで事故が起き、死傷者が発生したとして、バス会社の経営陣が業務上過失致死罪を問われるでしょうか。殺人罪無期懲役になるでしょうか。違いますね。バスと鉄道では違う部分もありますが、もし、敢えて、運転士以外の刑事責任を考えるなら、それはJR西日本という法人に対する責任でしょう。輸送サービスを提供したのは、法人であり、個々の経営幹部ではないからです。しかし、法人への刑事責任というのは、法律的にありえません。この事故を機に、“組織罰”を問えないかという議論があるようですが、10年経っても議論の進展が何もなかったことが、法的に難しいことの証左でしょう。JR西日本を弁護しているのではありません。あれほどの甚大な数の犠牲者を出した会社に、経営責任がないはずがありません。経営責任は結果責任です。結果が全てです。原因がどうであれ、新型ATSの整備を後ろ倒ししなければ、事故は防げた可能性が高いという結果が全てです。刑事責任はほぼ確実に問われないことはわかっていたはずですから、民事制度の元で被害者と早期に和解を探る道を模索すべきだったとも考えます。

 

今回の事故の核心は、あまりに不可解な運転士の行動でした。脱線というより転覆といった方が正しいのです。そして、転覆による脱線事故というのは、ほとんど類がないのです。いわゆる日勤教育などのJR西日本の〈体質〉は、運転士の行動に影響を及ぼした”かもしれない”遠因にすぎません。当該運転士が死亡してしまった以上、それ以上の原因・因果関係は知りようがありません。「新型ATSが設置されていれば、防げた可能性が高い」という結果責任は免れないですが、逆に結果論にすぎないとも言えると私は考えます。ATSとは、本来、速度超過による転覆を防ぐものではないからです。一例を挙げると、JR西日本は、東海道山陽本線の新快速を時速120キロから時速130キロに引き上げた際、ブレーキの性能を向上することで安全基準をクリアしました。つまり、地上側の設備ではなく、走行車両の性能で対応しました。ATSとは、自動列車”停止”装置の略で、ATS整備の歴史は、速度超過による転覆事故などではなく、列車追突事故を防ぐためのものなのです。自動列車”制御”装置(ATC)は、日本の鉄道網広しと言えども、限られた路線にしか設置されていません。いろんな性能の車両が走る路線に設置することはできないのです。もっとも、速度照査機能を搭載したATCに近い”新型ATS”もあり、福知山線ではこれの設置計画がありましたが、ピンポイントで列車速度をコントロールするという発想はありませんでした。”転覆”事故防止対策を先送りしていたとは言えないのです。同様に、事故現場のカーブをより急なものにつけかえたことが問題だという主張も誤りです。事故現場のようなカーブは、日本中に文字通り星の数ほど存在するからです。

永瀬和彦氏(国鉄OB鉄道技術コンサルタント)は、

「通い慣れた線路を運転する運転士は大きな制限速度のある位置は知悉しており、目を閉じて運転してもブレーキ時期を逸することは、先ずありえない」と述べていますが、これは間違っていないと思います。私は、20年来小田急線を利用しているのですが、目をつぶっても、大体どこを走っているかは分かるのです。ましてや、専門的な訓練を受けた者なら、多少ぼぉっとしても、すぐにブレーキをかけるはずです。ところが全く不可解なことに、この事故では、運転士がブレーキをかけた形跡がないのです。事故原因を調査した事故調査委員会の最終報告書では、「本件運転士が…注意が運転からそれたことについては…日勤教育又は懲戒処分等を行い、その報告を怠り又は虚偽報告を行った運転士にはより厳しい日勤教育または懲戒処分等を行うという同社の運転士管理手法が関与した可能性が考えられる」としていますが、あくまで”可能性”としてであって、直接の事故原因として断定はしていません。多くのメディアで〈利益偏重・安全軽視の体質〉がバブルのごとく喧伝され批判されましたが、今議論した技術的視点に立てば、事故から学ぶことはあっても、これらの”遠因”でもってJR西日本を必要以上に批判することは、あたらないのではないでしょうか。繰り返しになりますが、JR西日本を弁護しているのではありません。

 

“絶対の安全”は、科学的に存在しません。存在するなら、それは宗教の中です。「安全の取り組みに完成はない」という言い方は、この意味において理解すべきことです。残余リスク、即ち想定外の”摘みきれないリスクの芽”は、システムには必ず存在します。”失敗学”の第一人者である畑村洋太郎氏は『「想定外」を想定せよ!』という、非常に問題のあるタイトルの書籍を出してしまっていますが、そんなことは人間には不可能です。どこかで「ここまでで十分」という範囲を決めてやるしかありません。事故から学ぶという取り組みも、この考え方を踏まえないと、被害者側にとっては終わりのない闘争になってしまいます。安部誠治氏(関西大学)は、「組織の意思疎通を徹底し、万全な安全文化を目指すために、もう一段の取り組みを考えるべきときではないか」などと述べていますが、上記の議論を認識しているとは、到底感じられません。

 

10年経ったというだけでは、何の意義もありません。脱線と一口に言っても、そのメカニズムは個々に違うと言っても言い過ぎではないのです。今回の事故で、脱線事故というカテゴリーがあまり意味を持たないことが露わになったとも言えます。今日明日だけ、断片的な俄情報でもってテレビがちょっと特集を組んだり、新聞社が社説を出したりするのでは、”喉元過ぎれば熱さを忘れる”ではないでしょうか。今日は、犠牲者の方のご冥福と、負傷された方の1日も早い恢復を静かに願う1日にしたいと思います。