山口修司の中辛鉄道コラム”ぶった斬り!!”

新進気鋭の交通評論家が、日常の鉄道ニュースに対し、独自の視点で鋭く切り込みます。

福知山線脱線事故から15年、これからすべきこと・もうすべきではないこと

今日で、JR福知山線脱線事故から、15年になります。

 

事故後10年(2015年)から、この間に起きたインシデントを取り立てて、「安全意識の徹底が不十分だ」と批判し、「安全対策に終わりはない」と締めくくるのが、マスコミの定番パターンになっています。
しかし、「安全対策に終わりはない」という言葉の意味を、真に理解しているのでしょうか。それは、「絶対の安全はない」ということの裏返しであり、それは即ち、ある程度のインシデントは、今後も起こり続けるということです。しかも、そのうちのいくつかは、セキュリティの隙間を潜り抜けるがごとく(これを、”スイスチーズモデル”と呼びます)、重大インシデントとして、表に出てきます。大事なのは、その重大インシデントを批判することではなく、それをアクシデントにしないために、インシデントのレベルで、確実に摘み取ることです。

 

今日は、事故原因についての技術的なことや、JR西の責任論については、もう議論しません。事故後10年の5年前の今日に、詳細に述べたので、これらに関してモヤっとしている方は、そちらをお読みくださいませ。

 

今後、まず変わるべきは、そのマスコミではないでしょうか。
本来、マスコミとは、一般人では読み解けないことを、専門家の叡智を繋ぎ合わせて、その本質を抜き出すことにあると考えます。では、この5年間、その役割を果たしてきたでしょうか。
今日の報道を見ても、いわゆる日勤教育批判や組織罰の議論を続けています。5年前と比べて、全く進歩していません。思考停止と言っても良いですが、その実相は「事故の風化を防げ」と言いつつも、4月25日以外は、きれいさっぱり忘れているということです。

 

マスコミのみなさんに問いたいです。何でもかんでも、関西大の安部誠治先生に聞くのは、もう止めませんか?私も直接お会いして、議論を交わしたことがありますが、安部誠治先生の本来のご専門は、公益事業論です。歴史的な経緯から、鉄道事故にコミットされるようになりましたが、とりわけ、技術的なことについては、ご専門の範囲外です。誠実な方なので、聞かれれば、答えてくれますが、必要以上の負担を安部誠治先生に求め続けていることになります。いつまでもそれを続けられるわけではありません。それは、マスコミの役割放棄ではないでしょうか。

 

鉄道アナリストの西上いつき氏は、「問題となった「日勤教育」鉄道会社のタテ社会は改善されたか?」と、今日のオンライン記事で問題提起をしていますが、程度の多少はあれ、組織は上意下達の性質を持ちます。極端な言い方をすれば、軍隊の性質を持つのです。ましてや、鉄道運行は、終わりのあるプロジェクトではなく、未来永劫続くオペレーションです。コンサルティング会社でのメンバーのチームワークとは、わけが違うのです。これを変革するというのなら、並大抵のことではできません。JR西のような、超巨大企業なら、尚更のことです。

 

その組織も変わり続けます。
JR西は、事故後に入社した社員の割合が、半数を超えました。罪の意識を当事者感覚として持ち続けろというのは、正直、無茶な話であり、それが社会正義にかなうとも思いません。
本来、そうなる前に、責任論については決着をつけるべきでしたが、極めて当然のことながら、事故当時の経営者の刑事責任については、不問となり、今でも事故のご遺族の中に不満が残ってしまっているままです。早期に民事責任のステージに移行すべきでしたが、刑事責任を問えるかもしれないという幻想を、メディア(特に在阪メディア)が撒いていたのであれば、それは唾棄すべきことです。

 

いわゆる、安全憲章のような経営トップの訓示は、実はあまり役に立たないことを、私は学位論文で立証しました(ご関心のある方は、私の公聴会資料をご覧ください)。事故現場の保存などで、理屈ではなく皮膚感覚として、社員に安全意識を植え付けることは、一定の効果を持つとは思いますが、果たしてどれほど、当事者意識を持たせることができるでしょうか。そこに拘泥することに、どれほどの事故抑止効果があるでしょうか。事故から15年経った今、鉄道の安全管理は、新たなステージに立つべきではないでしょうか。

 

【参照資料】

www.kobe-np.co.jpmainichi.jp

article.auone.jp

diamond.jp

www.slideshare.net

(書き下ろし)