山口修司の中辛鉄道コラム”ぶった斬り!!”

新進気鋭の交通評論家が、日常の鉄道ニュースに対し、独自の視点で鋭く切り込みます。

尼崎事故―たぶん、起訴にはならない

尼崎脱線 JR西社長ら書類送検

http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a3%ca%a3%d2%c0%be&k=200809/2008090800637

 

今回のポイントは、以下の3つと見る。

  1. 刑事罰の適用可能性は排除しなかった
  2. 追及するのは管理責任までで、経営責任は不問になった
  3. 全面決着までには、3合目くらいに過ぎない

ポイント[1]

送検したということは、事故現場を捜査した結果、刑事責任の存在可能性を排除できないと言ったに過ぎない。起訴は前提としているのものの、一番重い「厳重処分」ではなく、「相当処分」での送検になったことがこれを示していよう。間違っても、警察が、JR西の責任を認めた、とかいう意味ではない。どうせ在阪メディアはこのような論調になるだろうが、これは明確に誤りである。

ポイント[2]

「社長が送検」という報道が一部されているが、今回は、事故当時の経営者を送検したのではない。現社長がたまたま安全管理の最高責任者だった(というか、それゆえに、事故後社長に抜擢されたのだが)からである。経営責任を追及するのならば、いわゆる新型ATSの整備という設備投資計画を決定した経営層全員を(一部遺族が主張するように)送検しなければならない。山崎現社長のみを対象にしたのは、刑事的に追及できそうなのは管理者責任までで、経営責任の追及は到底無理だと、兵庫県警が判断したからに他ならない。いつもの事ながら、ほとんど、作為的なミスリーディングである。

 

[1]に関して、タイトルに付したように、刑事としては、書類送検どまりだろう。過失責任を問うのは、困難であるからである。過失責任が生じるのは、

1;事故原因と結果の間に因果関係が存在する

ことを前提に、

2;事故の発生に関して予見可能性が存在

し、その上で、

3;事故を回避する可能性が存在する

ことである。

今回の場合で言えば、

1と3は満たされているだろうが、2は難しい。具体的には、

1;速度超過と列車転覆の間には、物理的因果関係が存在し、

3;いわゆる新型ATSを(適切に)導入すれば、大幅な速度超過及びそれに伴う列車転覆は回避できる。問題は2;である。兵庫府警は、貨物列車の速度超過による脱線事例の存在をもって、予見可能性を主張しているようだが、「(事故調の最終報告書が言うような)余裕の無いダイヤやいわゆる日勤教育が原因で、一運転士に心理的負担がかかり、それが曲線部における暴走を引き起こし、それが大惨事をもたらす」ことを事前に予見せよ、というのは、私はかなり無理があると思う。運転士による暴走の可能性、といったレベルまで漏れなく予見しようと思えば、リスクアセスメントに終わりがなくなってしまう。現場作業員に要求する一定の信頼性を外してしまえば、考えられるケースは無数に出てくるだろう。鉄道運営の企業形態に関わらず、冷静に考えれば、それは無茶だ。

 

ちなみに、「起こるべくして起きた」という主張もあるが、このような主張をしているのは、主に、信楽高原鉄道脱線事故において、JR西と”民事”訴訟で争った人たちによるということを、念頭に置く必要がある。また、新型ATSの整備率をJR東と比較する議論もあるが、財務状況も経営環境も異なる両社を、旧国鉄という理由だけで同列に論ずるのも、明らかにフェアではない。首都圏の輸送規模は、関西圏の輸送規模の2倍以上、新幹線の営業規模の違いも大きい。毎度の事ながら、報道にあるノイズは、割り引いて考えないといけない。

 

[2]に関して、検察が起訴するということは、事故当時の管理者の刑事責任を認め、彼らを”犯罪者”として、「懲役○年」という刑事罰を要求するということである。「経営上のリスク判断を誤ったら、お縄になって、塀の中で何年も蹲まることになるかも知れない」というのでは、誰も旅客輸送の経営に携わろうなんて思わないだろう。これぞ、リヴァイアサンたる、国家の暴力性である。司法における、推定無罪の原則の根拠も、ここにある。もし、「悪いことをしたやつは、懲らしめるべきだ」と一般に考えられているのならば、国家の暴力性について、あまりにナイーブな感覚と言わざるを得ない。それでは、悪いことをした人間にお代官様が裁きをするという、前近代的なシステムと何の違いも無い。この国は、近代国家である。誤解してならないのは、”責任”とは多様な概念であり、刑罰を受ける対象としての刑事責任、法人としての民事責任(例えば、賠償責任)、経営者の経営責任(これは結果責任)、最近流行の社会的責任、等はそれぞれ別物であるということである。”責任”を議論する際には、責任を負う主体は誰(例えば、法人としてのJR西)で、誰に対して(例えば、被害者に対して)、どのような(例えば、損害賠償責任)が生じ、それは上のいずれであるのかを、明確にしなければならない。警察・検察が検討しているのは、国家による刑(事)罰を科することが妥当かどうかであって、それ以上のことではない。尼崎事故について言えば、”真相解明”ですら、警察の役割ではない(これは事故調の役割である)。

 

刑事責任を認めないからといって、JR西を擁護していることには全くならない。実際に事故で物理的被害が生じた以上、結果責任は明らかであり、JR西は、被害者及び遺族に対しての賠償責任を遂行しなければならない。損害賠償が支払えずに、JR西が潰れたとしても、全く致し方ない(現実には、保険会社の後ろ盾があるから、潰れることは無いが、これは責任の有無とは別の話である)。賠償責任の発生と、先に述べた、予見可能性や、結果回避可能性とは、殆ど関係がない。場合によっては、因果関係が満たされなくても、賠償責任が生じるろう。但し、繰返しになるが、そのことと、国家によって刑事罰を科するかどうかは、区別されるべき問題である。

 

今回の送検は、尼崎事故があまりに衝撃的だったゆえに、「司法側として、最大限できることを模索した」という姿勢をアピールするということで決着をつけるという、司法側の姿勢を表したことになると思う。送検前に、事故被害者に送検内容を説明した、というのも同じであろう。メディアでは”極めて異例”と、オブラートに包んだ言い方をしているが、原則論で言えば、これはまずい。書類送検前に、事故のステークホルダーの一方である遺族側に、送検内容をめぐって接触するのは、送検内容の客観性が揺らぐ恐れがあるからだ。ご遺族に心を傷めていた警察側が、捜査に影響を及ぼさない範囲で、最大限の配慮をした、ということなのだろう。プロセスの正統性は少し逸脱していると思うが、これくらいのフレキシビリティはあって良いと思う。

ポイント[3]

今後の展開として、被害者及びご遺族に対する、現在の官僚的すぎる形式的なJR西の対応がそのまま延長されるなら、一部のご遺族は確実に納得しないだろうから、示談不成立で民事訴訟に持ち込まれるだろう。民事裁判では、事実関係が争われるだろうが、この場合、遺族側は旧経営陣の経営責任を問うだろうから、経営上の過失についての事実認定で争うことになる。JR西としては、過失責任を認めれば、企業及び業界の存続が危ぶまれるから、賠償金の大小はともあれ、この事実関係については、全面的に争う姿勢をとるはずだ。こうなると、刑事不起訴→民事訴訟→民事地裁判決&どちらかの控訴→民事控訴審→民事控訴審判決、という気の遠くなるような展開になり、そのたびに、在阪TV局を中心に、遺族側に同情した体の、センチメンタルな報道が繰り広げられることになる。今回の送検に際し、「何でこんなに時間がかかるのか」というご遺族の声があったが、最終決着までは、残念ながら、半分も過ぎていないというのが、私の見方である。信楽事故のように、事実認定に関して、刑事と民事の判断が異なるような展開になれば、話はさらにややこしくなる。見ていて非常に嘆かわしいが、今の「この国のかたち」では、このような事態は避けられそうに無いと思う。

 

起こした事故の甚大さに対して、これではJR西のダメージが少なすぎる、と思う人もいるだろうが、私は必ずしもそうは思わない。東海道新幹線の開業や国鉄の分割民営化に携わった、国鉄OBの角本良平氏は「JRは2020年に存在するか」という刺激的なタイトルの本を書いている。今後10年くらいの間に、現在のJR7社体制は再編を迫られるというものだ*1。私はこの再編の交渉過程で、尼崎事故のマイナスイメージが響いて、JR西がかなり不利な立場に置かれるのではと考えている。現在は一段落しているが、民事訴訟のステージになれば、在阪メディアを中心に、JR西バッシングが再び盛り上がるだろう。会社にとって、自らの存続は、至上命題である。これが脅かされるのだから、尼崎事故がJR西に与えるダメージは、計り知れない。猪瀬直樹(現東京都副知事)が言うように、JR西が、民間企業として「利益追求」に徹していたならば、むしろ尼崎事故は起きなかったかもしれないのだ。

 

費用便益分析も知らずに、栗東市長に
「もっと勉強してください。私も勉強してますから」
とかなじられる怠惰なマスコミどもに、当方を論破することができるとは思わない。