山口修司の中辛鉄道コラム”ぶった斬り!!”

新進気鋭の交通評論家が、日常の鉄道ニュースに対し、独自の視点で鋭く切り込みます。

0系新幹線引退―ノスタルジーに浸っている場合か

44年間活躍した初代新幹線「0系」の定期運転最終日 JR新大阪駅に多くの人が集まる
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn/20081130/20081130-00000012-fnn-soci.html


細かいことを言えば、今日使用された車両が44年間走り続けていたわけではない。後継車両が開発されるまでの約20年の間、同型車両は廃車と新造を繰り返している。しかし、設計は殆ど1964年の東海道新幹線の開業当時と変わらないので、半世紀近く前の技術を未だに使い続けていることになる。高速鉄道の世界は、2007年に、フランス新幹線がついに時速300キロ超の営業運転を始め、日本の優位性は揺らぎつつある。これは、騒音問題など、実用にあたって要求される技術が、日本の方がハードルが高いことに一因があるが、それを考慮しても、高速輸送において半世紀前の技術を温存していることは、好ましい状況とは言えない。


初代新幹線の開発については、
「超高速に挑む―新幹線開発に賭けた男たち。」碇義朗,1993

「東海道新幹線」角本良平,1964
「新幹線をつくった男―島秀雄物語」高橋団吉,2000
など多くの書籍が刊行されているし、近日では、インターネットでも幾つかの特集が載っている。
例えば、

「さよなら0系新幹線 44年の軌跡と5つの物語」
「初代新幹線「0系」:ゼロから作った安全 試験車の運転士語る」
これらの後塵を拝して、本稿で講釈を垂れるつもりはない。



例によって、沿線各駅で、目を覆いたくなるほど多くの鉄道ファンでごったがえしている。この異様な光景は、はっきり言って、「鉄ちゃん=キモい」というイメージダウンにしかならないと思うのだが、かくいう私も、0系が東海道新幹線から引退する時には、小田原駅に足を運んでしまった。10年以上前の話である。
そう、JR東海は、こんな旧型車両など、とっくの昔に駆逐しているのである。
それどころか、今回引退する0系の後継者である100系車両も、2003年の品川駅開業時に駆逐している。初代「のぞみ」用車両の300系も、初期に製造されたものは、とうに廃車が始まっている。今回のニュースは、JR東海と、JR西日本の経営体力・財務状況の差を如実に示しているのである。東海道新幹線しか使わないと、「まだ、だんご鼻の車両なんか走っているのか」と感じるだろう。


国鉄分割民営化後、黒字経営を維持できるのは、本州三社のみと想定された。
看板会社として想定されたJR東日本*1は、圧倒的な収益力を背景に、「成田エクスプレス」や当時在来線最高速の「スーパーひたち」、二階建てグリーン車を連結した「スーパービュー踊り子」、全車両二階建てのMAXことE1系、等の新型車両、駅ナカビジネス、さらには鉄道業界を飛び越えるイノベーションになったICきっぷSUICAなど、続々と設備投資をした*2
JR東海は、あくまで減価償却の範囲ながらも、収益の8割を占める東海道新幹線に設備投資を集中し、2003年の品川駅開業を「第二の開業」と位置づけて、全列車の大幅なスピードアップを実現し、好調経営を続けている。
一方のJR西日本は、JR東日本JR東海と比べて、分割民営化前から厳しい経営が見込まれ、実際、その通りになった。このことと結び付けた議論は慎重になされなければならないが、福知山線脱線事故まで起こしてしまった。
JR西日本は、京阪神間で速達性を武器に、競合他社に圧倒的な優位を確立しているし、対北陸輸送では、準新幹線とも言えるほどの高速輸送を実現している。また、速達性よりも快適性を重視するニーズに対応した「ひかりレールスター」の導入など、決して防戦一方ではない。
しかし、鉄道産業は、本質的に規模の経済が大きく働くため、市場規模が小さいと、どうしようもないのである。さらに、羽田空港伊丹空港と異なり、福岡空港博多駅から非常に近いため、JR東海と同程度の高速輸送サービスを提供しても、航空機に対して、競争優位を確立できない。



今後の市場の変化としては、2011年の九州新幹線の博多開業が挙げられる。整備新幹線推進の是非はともかく、これは必ず訪れる未来である。しかし、これをもってしても、劇的に経営環境が良くなる訳ではない。
情報公開はされていないが、在来線(山陽本線)と合わせると、山陽線は赤字ではないかと言われている*3山陽新幹線を造らなかったら、中国方面の旅客輸送はジリ貧になっただろうから、建設自体が間違っていたとは思わない。しかし、JR西日本が、未だに「0系引退」なんていう設備投資の段階であることは、今後の整備新幹線の建設に関して、示唆を与えている。半世紀前のノスタルジーに浸っている場合ではない。