山口修司の中辛鉄道コラム”ぶった斬り!!”

新進気鋭の交通評論家が、日常の鉄道ニュースに対し、独自の視点で鋭く切り込みます。

随想〜責任論と技術論-尼崎JR脱線事故10年

あの事故から今日で10年になります。

おそらく、刑事事件としては、最高裁で上告棄却となると思います。私は7年前に不起訴になるだろうと論じました。私の予想が外れ、第二審まで行ったのは、検察審議会が強制起訴したからで、元々の検察判断は不起訴でした。理由は7年前の投稿で詳述したのでそちらもお読み戴ければと思いますが、過失要件を満たさないからです。「誰も責任を問われないのか」という意見がありますが、刑事責任を問われるということは、殺人罪が適応されるということです。例えば、高速バスで事故が起き、死傷者が発生したとして、バス会社の経営陣が業務上過失致死罪を問われるでしょうか。殺人罪無期懲役になるでしょうか。違いますね。バスと鉄道では違う部分もありますが、もし、敢えて、運転士以外の刑事責任を考えるなら、それはJR西日本という法人に対する責任でしょう。輸送サービスを提供したのは、法人であり、個々の経営幹部ではないからです。しかし、法人への刑事責任というのは、法律的にありえません。この事故を機に、“組織罰”を問えないかという議論があるようですが、10年経っても議論の進展が何もなかったことが、法的に難しいことの証左でしょう。JR西日本を弁護しているのではありません。あれほどの甚大な数の犠牲者を出した会社に、経営責任がないはずがありません。経営責任は結果責任です。結果が全てです。原因がどうであれ、新型ATSの整備を後ろ倒ししなければ、事故は防げた可能性が高いという結果が全てです。刑事責任はほぼ確実に問われないことはわかっていたはずですから、民事制度の元で被害者と早期に和解を探る道を模索すべきだったとも考えます。

 

今回の事故の核心は、あまりに不可解な運転士の行動でした。脱線というより転覆といった方が正しいのです。そして、転覆による脱線事故というのは、ほとんど類がないのです。いわゆる日勤教育などのJR西日本の〈体質〉は、運転士の行動に影響を及ぼした”かもしれない”遠因にすぎません。当該運転士が死亡してしまった以上、それ以上の原因・因果関係は知りようがありません。「新型ATSが設置されていれば、防げた可能性が高い」という結果責任は免れないですが、逆に結果論にすぎないとも言えると私は考えます。ATSとは、本来、速度超過による転覆を防ぐものではないからです。一例を挙げると、JR西日本は、東海道山陽本線の新快速を時速120キロから時速130キロに引き上げた際、ブレーキの性能を向上することで安全基準をクリアしました。つまり、地上側の設備ではなく、走行車両の性能で対応しました。ATSとは、自動列車”停止”装置の略で、ATS整備の歴史は、速度超過による転覆事故などではなく、列車追突事故を防ぐためのものなのです。自動列車”制御”装置(ATC)は、日本の鉄道網広しと言えども、限られた路線にしか設置されていません。いろんな性能の車両が走る路線に設置することはできないのです。もっとも、速度照査機能を搭載したATCに近い”新型ATS”もあり、福知山線ではこれの設置計画がありましたが、ピンポイントで列車速度をコントロールするという発想はありませんでした。”転覆”事故防止対策を先送りしていたとは言えないのです。同様に、事故現場のカーブをより急なものにつけかえたことが問題だという主張も誤りです。事故現場のようなカーブは、日本中に文字通り星の数ほど存在するからです。

永瀬和彦氏(国鉄OB鉄道技術コンサルタント)は、

「通い慣れた線路を運転する運転士は大きな制限速度のある位置は知悉しており、目を閉じて運転してもブレーキ時期を逸することは、先ずありえない」と述べていますが、これは間違っていないと思います。私は、20年来小田急線を利用しているのですが、目をつぶっても、大体どこを走っているかは分かるのです。ましてや、専門的な訓練を受けた者なら、多少ぼぉっとしても、すぐにブレーキをかけるはずです。ところが全く不可解なことに、この事故では、運転士がブレーキをかけた形跡がないのです。事故原因を調査した事故調査委員会の最終報告書では、「本件運転士が…注意が運転からそれたことについては…日勤教育又は懲戒処分等を行い、その報告を怠り又は虚偽報告を行った運転士にはより厳しい日勤教育または懲戒処分等を行うという同社の運転士管理手法が関与した可能性が考えられる」としていますが、あくまで”可能性”としてであって、直接の事故原因として断定はしていません。多くのメディアで〈利益偏重・安全軽視の体質〉がバブルのごとく喧伝され批判されましたが、今議論した技術的視点に立てば、事故から学ぶことはあっても、これらの”遠因”でもってJR西日本を必要以上に批判することは、あたらないのではないでしょうか。繰り返しになりますが、JR西日本を弁護しているのではありません。

 

“絶対の安全”は、科学的に存在しません。存在するなら、それは宗教の中です。「安全の取り組みに完成はない」という言い方は、この意味において理解すべきことです。残余リスク、即ち想定外の”摘みきれないリスクの芽”は、システムには必ず存在します。”失敗学”の第一人者である畑村洋太郎氏は『「想定外」を想定せよ!』という、非常に問題のあるタイトルの書籍を出してしまっていますが、そんなことは人間には不可能です。どこかで「ここまでで十分」という範囲を決めてやるしかありません。事故から学ぶという取り組みも、この考え方を踏まえないと、被害者側にとっては終わりのない闘争になってしまいます。安部誠治氏(関西大学)は、「組織の意思疎通を徹底し、万全な安全文化を目指すために、もう一段の取り組みを考えるべきときではないか」などと述べていますが、上記の議論を認識しているとは、到底感じられません。

 

10年経ったというだけでは、何の意義もありません。脱線と一口に言っても、そのメカニズムは個々に違うと言っても言い過ぎではないのです。今回の事故で、脱線事故というカテゴリーがあまり意味を持たないことが露わになったとも言えます。今日明日だけ、断片的な俄情報でもってテレビがちょっと特集を組んだり、新聞社が社説を出したりするのでは、”喉元過ぎれば熱さを忘れる”ではないでしょうか。今日は、犠牲者の方のご冥福と、負傷された方の1日も早い恢復を静かに願う1日にしたいと思います。

JR北海道 ”完全上下分離”で組織再構築を

北海道新聞「JRが今やるべきことは明白だ」

メスを入れるべき組織の病巣がどこにあるか、見当はつくだろう。 安全軽視の背筋が寒くなる実態を許してきたのは本社のずさんな管理体制だ。 安全最優先の組織で人心の荒廃が進んでいると言うしかない。

9月29日付社説より抜粋)

何を根拠に“病巣”の“見当”を、“本社”の、つまり経営者側の“管理体制”の“ずさんさ”につけたのか、”人心の荒廃”とはインタビューでも取ったのか、 “現場の”「人員と資材不足」という”声”だけが根拠だとしたら、それこそ“ずさんな”分析である。「レールのデータ、社内で共有ルールなし」*1 「現場の独自判断で枕木交換していた」*2,*3等、インフラ設備管理の驚愕の実態は、“ずさんな管理体制”ゆえなのか、それとも現場と経営側の力関係が逆転しているゆえ本社が機能不全に陥っているからなのか、その両方なのか。頭から決めつけることは危険である。

「組織、体質の問題で極めて悪質」菅官房長官発言の真意

組織体質/風土・企業体質/風土という言葉は、企業の不祥事を批判する際に頻用されるが、実は学問的な定義はない。つまり、この言葉が発せられた時は、眉に唾を付けた方がいい。タイトルの菅官房長官の発言には、真意があるという。“政府関係者”によれば、「あの菅長官の発言はJR北海道の異常な労使関係を念頭に置いたもの」という。“政府関係者”というのは、マスコミ業界での隠語で、でっちあげの記事ではない証左である*4。菅官房長官が念頭に置いたとされるJR北海道の労使関係は、週刊文春週刊新潮のそれぞれの10月10日号に詳しい。両誌によれば、社員の8割以上が所属する北海道旅客鉄道労働組合(以下、北鉄労)では、「彼ら(注:北鉄労)は組合員に、我々、他組合の人間とは『職場で会ってもあいさつするな、談笑するな』と指導している」*5という。太田昭宏国交相は4日午前の閣議後会見で「鉄道では各現場の確実な意思疎通が重要だが、JR北海道は監査の結果、不十分だと明らかになった」と述べている*6が、このような職場で、“確実な意思疎通”などできるわけがない。言うまでもなく、鉄道は、走行車両・軌道・信号保安システム、それら等を支えるヒト・モノ・カネで構成されるシステムである。システムの要素間での意思疎通に不全が生じれば、システム全体の安全運行は覚束なくなる。

毎日新聞によれば、今年1〜2月、JR北海道は社員に対し「働きがい」についてアンケートした結果、「経営理念への共感」「変革への行動、当事者意識」といった項目が、”他の会社の平均と比べて極端に低かった”*7毎日新聞は「会社が「安全重視」を打ち出しても、現場はしらけている」と批判するが、現場と経営側の力関係が逆転しているとすれば、当然の結果ではないだろうか。このような実態が、経営幹部の首をすげ替えるだけで解決するはずが無い。根本的に企業形態を見直す必要がある。

「「新幹線開通で何とかなる」と道民の多くは信じている」*8

鉄道の路線ごとの収支採算は、どの事業者でも明らかにされていないが、週刊東洋経済の独自試算によれば,千歳線以外は全て赤字である。道民はそれを薄々分かっており、だからこそ北海道新幹線開業での“一発逆転”に望みをつないでいるのではないだろうか。だが、単純に札幌まで新幹線を引くだけでは、状況の打開にはならない(このことについては、別稿の5で詳しく論じたので、そちらをお読み戴きたい)。

JR北海道を含むJR三社が、鉄業事業としてはマイナスの価値しか持たないのは、国鉄分割民営化の初めから分かっていたことであり、「会社の金欠状態」を安部誠治関西大教授*9ハフィントンポストに今更指摘されるまでもない、事情通にとっての常識である。

現場と経営陣とのコミュニケーション不全、即ち、どこにいくら(何を)必要とすべきなのか、明確な情報共有がされていない。このJR北海道の現状を打開するには、上下分離政策を行うべきである(“上下分離”については、稿末で解説する)。また、現場と会社側のコミュニケーション不全・相互不信を鑑みれば、会計上のみの上下分離だけではなく、企業構造を根本から変える、完全上下分離が望ましい。完全上下分離は、分社化された複数のインフラ会社が情報共有できず、安全運行に支障をきたすリスクがある*10が、幸いにしてか、JR北海道は非電化区間が殆どである。行政単位も北海道のみである。理想的には道州制の導入が先立つべきであろうが、インフラ会社は北海道営の単一会社にできる。残りの列車運行のみを現在のJR北海道にする。JR北海道の鉄道事業内容は大きく変わる。否応なく組織の変容が必要になる。

JR北海道の一連の不祥事で、観光や事業への安定継続にまで懸念が出ている*11。決して実体経済が良いとは言えない北海道にとって、観光産業への打撃は避けなければならない。JR北海道は、100%国が株式を保有している。今回の問題は、国が三島問題の答えを出す時だ、という啓示と捉えるべきではないだろうか。

 

***上下分離について***

鉄道の経営形態は、主に3つある。 1) 列車運行とインフラ設備管理を同一の企業が行う形態 日本ではこの形態が殆どであるが、海外ではそのケースはむしろ珍しい。 2) 列車運行とインフラ設備管理を別々の会社が担う “完全上下分離” 鉄道というインフラを、特定の運行会社に限定しないせずに解放する形態である。 3)会計上の上下分離 経営形態は、会計上は列車運行とインフラ設備管理を分離するが、営業活動としては同一の経営体として運営する*12。 それぞれに、メリット・デメリットがある。

*1:10月16日 読売新聞

*2:10月16日 読売新聞

*3:10月15日 朝日新聞

*4:自民国土交通部会では、労組との関連問う声相次いだという。10月09日 産經新聞

*5:週刊新潮 10月10日号

*6:10月04日 産經新聞

*7:10月10日 毎日新聞

*8:鉄道専門誌でのこの投稿は、今回の問題が明るみになる前に寄稿されたものである。

*9:安部氏の研究業績は、こちらから。

*10:イギリスでは、この結果、レール破断事故を起こしてしまったという実例がある。

*11:日本経済新聞9月26日

*12:技術的に容易に想像が付くが、インフラ設備の管理は、それを利用する列車の形態に依存する。例えば、高速鉄道を運行するとなると、レールは重軌条のものが必要となるし、レールの整備もよりシビアなものが求められる。夜間に貨物列車を運行するとなれば、保線作業のスケジュールにも影響する。

事故原因は、システム工学が設計思想になかったからでは?

今回の中国高速鉄道の衝突事故に関して、中国当局に対する「隠蔽体質」等の政治的な指摘は控える。また、中国の急速な経済成長に対して斜に構え「いつか事故が起きると思っていた」「これからも事故は続発するだろう」等の訳知り顔の議論をするつもりも一切ない。ただ、今回の事故前に中国系メディアが「日本の新幹線だって事故は多い、寛容になろう」と主張したのに対し、「トラブル続きなのは、各技術をintegrateするシステム工学を持たずに世界各国から技術をつぎはぎしたことが原因。高速技術の肝要を勘違いしている限り、トラブルは収束しないだろう。」と7月14日に私はtwitter投稿をしていた。誤解を招きかねないにも関わらずこのことを取り上げたのは、今回の大事故は全く同じことが原因にあると現時点で推測しているからである。
 
日本の新幹線は戦前からの技術の蓄積の産物であるから、「技術の本質とは何かを認識せずに形だけ真似してもうまくいかない」(大前研一氏)「所与の条件をしっかり知っている、それ故にそれを直せる、使える、運用できる人間がいなければならない。おそらくそれをしっかりと運用できる人間は少ない」(伊藤洋一氏)という指摘は、確かに正しいだろう。だが、それは一番重要なファクターではないように思える。今回の事故原因には「情報システムの欠陥」「運転指令の人為ミス」などが報道されているが、それは表面的な視点だと考える。確かに、発生事象としては正しいだろう。しかし、日本やヨーロッパの高速鉄道では、このような事態は技術的に起こり得ない。高速鉄道は車内信号方式であるというのは常識だが、テレビ報道を見ても解るとおり、中国の高速鉄道では信号機がついている。その保安システムは、ヨーロッパのETCSをベースに“独自開発”したCTCSである(曽根悟工学院大教授)が、ETCSはもちろん車内信号方式である。高速専用区間に信号機はない。まさに「形作って魂入れず」の様相である。即ち“システム工学”の視点が抜け落ちている。
 
システム工学は一般にNASAスペースシャトル開発が起源だとされているが、我が国の東海道新幹線でも、システム工学の思想を持っていた(『新幹線をつくった男 島秀雄物語』高橋団吉著)。島技師長の考えは「起こりうるあらゆる条件を考慮して、もっとも合理的な“体系”を作りあげる」(引用符著者)ことであったという。即ち、土木・電気・車両を有機的に統括・制御する、システム工学の思想が設計に盛り込まれなければならない。今回の事故要因の一つとされるCTC(列車自動制御装置)はその要である。したがって、これが何らかの事態により機能しなくなれば、それは輸送システム全体の危険を意味する。とりわけ、高速鉄道の場合は即座に全列車を止めなければならない。というか、動かすことができないようになっている。これが安全工学の分野でよくいわれる「フェールセーフ」(ひとつのシステムや装置が故障・損壊(=フェール)したとき、危険な状態にならない(=セーフ)ようにシステム自体を設計しておくこと)の考え方であり、日本の鉄道における安全管理の基本哲学である。CTCが電源喪失したにも関わらず、列車の制御を自動から手動に切り替えたという“人為ミス”が発生したのは、この「フェールセーフ」の考え方が、システム設計に盛り込まれていなかったことを意味する。人為ミス・人材育成以前の問題である。
 
この「高速鉄道は、システム工学によって作られる」という点を認識しない限り、いくら当局が“調査”しても今回の事故の〈本質〉を捉えることはできないに違いない。日本の鉄道会社が新幹線技術の海外からの受注合戦において、“パッケージ”としてしか提案しない理由はこの点にある。再発防止には、根本的に輸送システム全体を作り替えることが必須である。線路上に信号機があるようではお話にならない。それまでは高速鉄道の営業自体を休止すべきであり、暫定運行をするのは人命軽視と言われてもしかたないだろう。

東北新幹線全線開業―本当にこの”形”で良かったのか?

(本文は、約18000字です)

未だに消えない“地域振興・経済活性化の起爆剤”信仰

「新幹線が地域活性化起爆剤になるという≪新幹線神話≫は、すでに過去のものなのである」澤喜司郎(山口大学*1

「今必要なことは、交通における目的と手段の関係について正しい認識をもつこと、すなわち手段を目的視してはいけないという認識をもつことである」角本良平(国鉄OB,交通評論家)*2

これらの指摘は1990年代中盤に出たものである。一方、昨日の交通新聞の記事にはこうある。

東北新幹線新青森開業は)首都圏〜北東北エリアの高速交通体系の充実化に伴う地域振興・経済活性化に向けた1つの起爆剤として注目を集める。

15年間、全くの思考停止状態だったことが読み取れる。

言うまでもなく、外部経済(効果)には、プラスマイナス両面のものが存在する*3
外部不経済の代表は、いわゆるストロー効果である。「悲願だった」という割には、東北では直近の八戸駅延伸開業ですら、実際にどのように地域振興政策と連携するかは定まらないまま、30年間以上プロジェクトの見直しもしないまま、結局見切り発車を迎えた*4リーマンショックや地方経済の疲弊は言い訳にもならない。万歳三唱で一番列車を見送るというのは、未だ新幹線を記号*5でしか捉えられていない思考状況を暗示している。新函館駅までの北海道新幹線も既に着工しているが、青函トンネル内での新幹線電車と貨物列車の行き違い時の安全性という基本的な技術問題すら未だに放置したままの着工である。東奥日報の今朝の社説が、見切り発車ぶりを物語る(太字は引用者)。

新幹線全線開業により……県内を訪れるさまざまな人々に心を尽くし、あたたかく迎えたい。そしてその積み重ねによって、本県の社会・経済の水準が高まっていくことを望む。
……県内各地と首都圏との距離・時間差は人々にとり便益を失うこと。これを縮める巨大な交通インフラ・東北新幹線という光彩が、県民の暮らしに質的な進歩をもたらすものと信じたい*6

「『整備新幹線は採算性に問題』は根拠不明の単なる決まり文句*7ではない

並行在来線の問題は、絶対に解決しない。在来線単体で黒字にできるなら、そもそもJRからの経営分離の対象にならないからだ。どうやっても黒字が見込めないから経営分離するのであり、赤字は宿命である。現在でも収支採算が取れているか怪しい状況で、総供給量を増やしたら赤字が増えるのは、自明である。「もう少し工夫し、第三セクターのかかっている経費、利用者数、その他の新幹線によってもたらされる収益などをうまく分け合えば(問題は解決する)」*8というのは楽観的すぎる。小手先の対応では、どうしようもない。

上の”並行在来線解決案”は、元国鉄キャリアの野沢太三自民党参議院議員によるものだが、同氏が主張する*9ように、「新幹線は造れば造るほど赤字がまた増える」は、確かに誤りだ。建設費は全額税金であり、JRは利潤を上げた場合に納税をすれば良い。旧国鉄のように、赤字の投資や路線運営を強いられることはない。しかし、プロジェクト全体で黒字であるかのようなニュアンスは正しくない。並行在来線の新規赤字コストをカウントしていないドンブリ勘定だからだ。このような試算に、例えば、京大土木系の中川大教授*10らによる「整備新幹線評価論 ◆先入観にとらわれず科学的に検証しよう」がある。著者らは「これからの時代に向けての社会資本整備は、真に優れた事業が厳選されて進められるべきであり、そのためにはすべての事業が公平に評価されなければなりません。整備新幹線も、先入観にとらわれることなく、新たな時代においての必要性を科学的に評価することから議論を始めるべき」と謳い、「整備新幹線は採算性に問題』は根拠不明の単なる決まり文句なのでは?」と述べているが、これは明らかに誤りである。道路公団民営化議論の際も「建設推進派」扱いされた学識経験者が同趣旨のことを述べていたが、インフラ整備の際に使われる採算性とは、収支採算性のことではなく、投資採算性のことである*11。もちろん、並行在来線問題という収支採算性も考えないといけない。この外部不経済まで考慮に入れた投資採算性の議論は、聞いたことがない。仮に、トータルで黒字であったとしても、外部不経済の効果を重く見るなら、そのプロジェクトは実施しない、という判断もありうる。

「うなぎを注文したのに、穴子やどじょうが出てきた」

今更言っても始まらないのだが、今回の開業区間は”フル規格”で作るべきではなかった。
今日では、整備新幹線の建設は既存の新幹線と同じ規格だと考えられているが、国鉄分割民営化直後の一時期は、建設費の圧縮のために“ミニ新幹線方式”や“スーパー特急方式”が検討された。結局、「ミニ新幹線では時間短縮効果が乏しく、航空機に勝てない」と、全ての計画路線がフル規格になったが、東京と終点の輸送だけを比較しているから、このような議論になる。東名阪のように両端間の移動に需要が集中しているなら意味のある議論だが、東京―北東北、東京―信州といった地域では、遠隔地で分散的に客を拾うというのが輸送実態であり、フル規格の特性は十分に発揮できない。実際、長野新幹線では、フル規格の特性が発揮されるノンストップ便は現在に至るまで一日一便のみである。むしろ、停車パターンを柔軟に設定できる在来線流用方式(ミニ新幹線)の方が適している。始発終電は普通種別で運行、といったことも可能になる*12。フル規格では、新幹線の駅が設置されない特急停車駅が、全て切り捨てられてしまう。長野新幹線の場合は中軽井沢小諸戸倉篠ノ井などの各駅、今回の開業では三沢野辺地浅虫温泉などの各駅が該当する。「ブログ市長」で話題の阿久根市政の混乱も、かつて特急停車駅だったのがフル規格建設で切り捨てられ、ローカル線の駅に転落したことに一因がある*13。また、青森駅ではなく「新青森」駅なのは北海道新幹線の延伸のための立地であり、同駅は青森市街地から4キロも離れたところにある。ミニ新幹線方式なら乗り換えなしでダイレクトに青森駅に行ける。ミニ新幹線案に対して「お茶をにごす幼稚な案」と自民党運輸族議員は"断固拒否"していた*14が、幼稚なのは「鰻か穴子か」という記号上の思考に留まっていた運輸族の方だった。マクロな整備計画に対し、このようなミクロの発想をしていたのは、鉄道アナリストの川島令三氏くらい*15だった。


 “スーパー特急方式”も今は死語と化しているが、これは都市部では在来線を流用し、都市間ではフル規格に準じた設備にするという方式である。これも“穴子””どじょう”だと揶揄されたが、東海道新幹線の建設時には、地価の高い都市部まで新規に線路を敷設するのは賢明でないと海外から批判を受けたのである。東北新幹線は、盛岡―大宮間と都心部(上野―大宮間)の建設費が同規模になってしまった。在来線も標準軌のフランスでは、新規路線建設は都市間に限られる。が、「福井・石川は原発で苦労をかけているから」という森首相(当時)による見返り対価でフル規格になった*16。全く筋違いの政策判断であり、インフラ整備プロジェクトとしての妥当性を検証した結果ではなかった。加えて、対北陸輸送は、ほくほく線による越後湯沢周りというルートを別に作ってしまっていた。鉄道専門誌の中でも最も楽天的な「鉄道ファン」誌*17ですら、ほくほく特急は消滅するだろうと予測している(前出の川島はこれを“2014年問題”と呼んでいる*18。)。高速輸送のための準新幹線と言える高規格設備は、ローカル輸送には全く不要で、大きな経営の足かせになる。勿論、森元首相を始め、意思決定をしたものは誰も責任を取らない。対北陸輸送は、ほくほく線を活用したスーパー特急形式にし、信州方面は長野までのミニ新幹線形式にすべきだった。そうすれば、並行在来線の問題も、2014年問題も発生しえなかった。いずれも、需要状況・輸送実態に応じて、建設規格を選択するべきだった。

<国土の均衡ある発展>は、理論的にありえない。

整備新幹線の実現は、「整備新幹線は国家プロジェクトです。ご理解いただきたい」という"鶴の一声"ならぬ、亀井静香建設相(当時)の"亀の一声"で決まった*19。亀井公の発想は「大都市の東京と大阪だけ、交通システムが便利なのはおかしい」「北海道から九州まで新幹線をつくれば、東京一極集中を是正できる」という観念的にすぎるレベルだった*20。本稿冒頭の角本博士の言葉を、想起されたい。都市部ですら、都心部から30分前後で駅から徒歩通勤できる近郊部と、概ね1時間以上の通勤を要し、クルマなしには生活できない郊外部の”格差” が存在する。利便性と快適性のトレードオフはどこでも存在する。各人が自分の価値観の中で折り合うところを選択している。「日本中どこでも格差をなくし、住み心地が変わらないようにする」なんていう目標*21は、全くの机上の空論である。全国ほぼくまなく同じテレビ番組が見れて、郵便・宅配便が送れて、スーパー・コンビニで都市部とほぼ遜色なく自由にモノが買えるというのは、大都市経済の恩恵である。地方経済単独で、先進国レベルの生活水準はありえない。
逆に、山手線の輸送電力が信濃川上流の発電から賄われていることに代表されるように、地方の負担なしに大都市部の経済は成り立たない。お互い持ちつ持たれつであり、「均衡ある発展」論はこの構造を無視している。新幹線は、憲法第25条が保障するところの、健康で文化的な最低限度の生活に必要不可欠なインフラとは考えられない。そう主張する人はその論拠と論理を具体的に示す必要がある。

どうする北海道新幹線?“超・新幹線”で一発逆転を図れるか?

「フル規格でないと、航空機に勝てない」という上述のフル規格論は、鉄道が分担できる範囲はそのあたりが限界であることを意味する。それより遠方では、航空機の分担範囲である。東京―福岡間の輸送の9割が空路である*22ことがこれを示す。北方方面では、青函が分水嶺になる。新青森駅と同様、新函館駅函館駅から18キロも離れ、駒ヶ岳山麓との中間地点に予定されている。事実上、札幌までの全通を前提とした立地である。戦艦大和・伊勢湾干拓と並び「昭和の三馬鹿」と当時の大蔵省主計官に酷評された青函トンネルも、本来の主目的は新幹線である。札幌駅の北側には新幹線ホーム用の用地が確保されている。八戸以北のフル規格という投資が見合うためには、札幌まで作るしかない。しかも、大幅なスピードアップが条件である。前出の川島は、時速350キロ運転をすれば、東京―札幌間は3時間25分で結べるという試算をし*23、「整備新幹線不要論は誤り」と主張する*24東北新幹線「なすの」が時速240キロ、山陽新幹線の「のぞみ」が時速300キロだから、これは今までの新幹線のイメージを大きく越える*25。スピードを出すこと自体は難しくない。実用化できる技術的な実現可能性は五分五分といったところだろう。過去の投資金額の大小を斟酌して未来の投資行動を決めるのは非合理な決定行動(”コンコルドの誤謬”)であり、MBAの科目試験なら零点の解答だが、ここは必ずしもそうではない。青森―東京の既存資産価値が、変化するからだ。貨物対策には、まさかもう一本青函トンネルを掘るわけにはいかない。巨額*26を投じて、上下線の間に壁を作るしかないだろう。 

 仮に3時間運転が実現できても、従来のような新幹線の価格設定では、到底航空機にかなわない。北海道新幹線だけで収支を取る独立採算制の新会社を立ち上げるなら別だが、内部補填の材料を手放せばJRの経営は破綻する。それが可能なら、東海道新幹線はもっと安くできる*27。それこそ、日本経済活性化の起爆剤になる。これができるには、赤字路線を遠慮なく経営分離できることが必要で、赤字部門を企業内部で補填するのは、鉄道の公共性に鑑みて好ましくない。対北海道輸送は、羽田空港において、ぶっちぎり第1位のドル箱路線である*28。この市場が航空機の独占でなくなれば、航空機は減便を迫られ、国際空港になった羽田空港の発着枠に余裕ができ、羽田空港のハブ化に寄与するだろう。ここまで見込んだ政策で初めて実行の価値があるが、間違いなく航空会社は反対する。高速道路無料化の政策と同様、市場の公平性に悖るからだ。「(最近でも6000億円ある北海道の公共事業枠のうち)その十分の一くらいのをちょっと回してもらえれば北海道新幹線はすぐに実現できる」*29というのは共感はできるが、関係者を説得する言葉を政治の側は持つだろうか。

地方が自律的に政策判断する仕組みの構築を

本来、財政の順番としては、国鉄債務の返済が先である。これが、既存の東北・上越新幹線の建設費を含むからだ。*30,*31

建設を”陳情”するだけで自分の懐が痛まないから、分不相応にも”うなぎ”を注文する。交通機関を新たに作ったら便利になるのは、当たり前である。たとえ空気輸送になっても、そのわすかな利用者にとっては便利になる。これが、限りある自分の財布からなら、食事はあきらめて他のことに使う、という選択の思考が出てくる。勿論、他のことを我慢して食費に費やしてもよい。全ては自己責任であるべきで、コミュニティのデザインにおける交通のウェイトやその内訳(新幹線か道路か空港か)は地方ごとに違って当然である。
現在のように、各プロジェクトの責任主体が複数の都道府県に分散していると、新幹線建設を推進する(断念しない)という路線のみが既定路線になってしまい、負の解決責任をお互いになすりつけ合うことになる*32道州制は一つの答えになるだろう*33地域主権という言葉は、保守層には国家主権の解体だとみなされ評判が悪い*34が、従来の地方分権では不十分という発想に基づく言い回しである。
前出の角本博士は、10年前にこう述べている。

整備新幹線はおそらくまず盛岡以北に開通し、その利用度と費用とが実証される。
……国・地方の債務累積が深刻であれば、新規着工は進まない。*35

本日の東北新幹線全通と、来年3月の九州新幹線全通で、整備新幹線建設は一区切りを迎える。三菱総研の平岩和昭研究員は「新幹線は地域振興の必要条件ではあるが、十分条件にはなり得ない。」*36というが、本当に必要条件なのか?二言目には、新幹線はインフラとして必要不可欠だと言われるが、本当にそうなのか?前出の野沢氏は「新幹線は採算が取れ、JRにも、乗客にも、地方にもありがたいシステムで、……公共事業として大切にしなければならない」という*37が、話を単純化しすぎなのは、以上見てきた通りである。経済対策としてではなく、純粋な公共交通整備事業としての効果検証が、これから求められる。 了

*1:「整備新幹線―政治新幹線を発車させた男たち」澤喜司郎,近代文芸社,1995.

*2:「交通の改革 政治の改革―閉塞を打破しよう」角本良平,流通経済大学出版会,1997

*3:地元ですら、懐疑的な見方がある。例えば、東奥日報の特集「第4部 盛り上がり(2)青森市民の声/「開業効果低い」と閉店/周辺整備遅れ期待感薄く」などを参照。

*4:「地域振興と整備新幹線―『はやて』の軌跡と課題」櫛引素夫,弘前大学出版会,2007.

*5:

*6:「実現した県民40年の悲願/東北新幹線全線開業」東奥日報12月4日(土)社説

*7:「整備新幹線評価論 ◆先入観にとらわれず科学的に検証しよう」中川大,波床正敏,2000.

*8:「新幹線の軌跡と展望―国会で活路を拓く」野沢太三,創英社三省堂書店 ,2010/07.

*9:野沢前掲書.

*10:執筆当時は、助教授。

*11:並行在来線は経営分離して構わないというスキームにすることで、JRに収支採算性を保障し、結果、整備事業にJRが“乗る”形になった。これが投資採算性を覆い隠すためのマジックになってしまっている。

*12:「日本「鉄道」改造論―魅力ある交通機関の条件」川島令三,中央書院,1992.

*13:竹原信一「ブログ市長の革命」より。もっとも、九州新幹線のこの区間に関しては、在来線は線形が悪く、フル規格による大幅なスピードアップに大きな意義があった。あくまで、一般論と理解されたい。

*14:澤前掲書,1995.

*15:川島前掲書,1992.

*16:朝日新聞2000年12月22日

*17:日本の代表的な鉄道情報誌は、"鉄道ピクトリアル"、"鉄道ファン"、"鉄道ジャーナル"の三誌である。

*18:「超・新幹線が日本を変える」ベストセラーズ,2008.

*19:平成6年12月14日の政府与党間合意(「永田町ビッグバンの仕掛人 亀井静香」大下英治,小学館文庫,1999.

*20:大下上掲書.

*21:野沢前掲書.

*22:国土交通省航空運輸統計速報(平成21年度)

*23:「新幹線はもっと速くできる」川島令三,中央書院,1999.

*24:「鉄道再生論―新たな可能性を拓く発想」川島令三,中央書院,2002.

*25:前出の川島は前掲書,2008のなかで、このような新幹線列車を“超・新幹線”と呼称している。

*26:障壁の設置には1600億円とされる。

*27:さらに次のことも知っておきたい。「収益調整の結果、東海道新幹線の乗客は本来の経費に加え、少なく見積もっても20%以上高い政策的経費負担を付加される形になっている。一言でいえば……本来あるべき運賃よりも20%割高な運賃を払っているのである。」(葛西敬之JR東海現会長著「未完の国鉄改革」より)

*28:国土交通省,上述統計

*29:野沢前掲書.

*30:「政府の失敗」の社会学―整備新幹線建設と旧国鉄長期債務問題の編著者である船橋晴俊法政大教授は、整備新幹線の財源を、国鉄債務相当の国債返済に充てるべきだとしている。

*31:年間の欠損は80年度に1兆0084億円に達し、75年度に対し937億円の増加となった。この前後の工事経費は毎年1兆円を越えており、東北新幹線がその4〜5割を占めた。毎年1兆円の欠損を出す企業が1兆円の投資をしていた(「新幹線軌跡と展望―政策・経済性から検証」(角本良平,交通新聞社,1999)より)。

*32:船橋ほか前掲書では“「断片的決定・帰結転嫁・無責任型」のシステム・主体・アリーナ型連動”と表現している。

*33:「鉄道総研の研究者が描く2030年の鉄道」(鉄道総研,2009)でも、この発想は触れられている。

*34:名古屋「正論」懇話会第7回講演会で八木秀次氏は「(民主党が掲げる「地域主権」は)地方分権とは似て非なるもので、300程度の基礎自治体があれば国はいらなくなるという、国の解体につながる考えだ」と述べている。出所は、産経の記事

*35:「鉄道経営の21世紀戦略」第2部”鉄道に可能な道”第6章”21世紀の鉄道” 角本良平交通新聞社,2000.

*36:「新幹線と地域振興」平岩和昭,交通新聞社,2002.

*37:野沢,前掲書.

福知山線事故5年―「強制起訴」からは何も生まれない

安全誓い、冥福祈る=遺族「二度と起こさないで」−福知山線事故5年で慰霊式・兵庫 
福知山線脱線事故の遺族が、歴代4人のJR西日本社長の刑事裁判に望むものは、
 
事故の真相究明」(70%)と「JR西の組織的な責任の明確化」(65%)*1
 
だそうだ。しかし、そもそも、どちらも刑事裁判の制度目的ではない。刑事裁判の目的は、国家権力が被告人を犯罪者として懲役刑などの刑事罰を課するかどうかであり、JR西日本という組織を被告にすることはできない(組織にどうやって懲役刑を課するのか?)。事故原因を調査するのは、司法の役割ではなく、航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)の役割であり、すでに最終報告書が出ている。井手正敬氏を始めとする歴代社長へのヒアリングが報告書にはないなど、遺族の不満が残っている*2のも残された課題なのだろうが、それなら再調査を求めるのが筋だろう。
 
今回、2度の神戸地検の不起訴処分を覆して、強制起訴した指定弁護士4人は23日の記者会見で、遺族の求める<真相究明>について「私どもの仕事は、被告に刑事責任を負わせるかどうか。全体の真相解明を求められると厳しい」と述べている*3。ノンフィクション作家の柳田邦男氏は「被害者心情(引用者注:歴代トップの経営姿勢と、事故との因果関係が解明されなかった失望と不満)に理解を示し今回の起訴につながった」と述べている*4。柳田氏は「画期的判断」、毎日社説氏は「市民感覚に沿うもの」と評価する*5が、これはそもそも遺族の希望を実現することが目的でないことを(当然)理解していながら、“民意”の後押し*6で起訴議決をしたことになる。私は、指定弁護士の司法(/正義)感覚を疑う。「検察官の処分から離れて「裸のままの民意」によって公訴権を実行させ、刑事裁判にかけるということは、本来の検察審査会制度の目的とするところではない」*7からだ。「今回の起訴で、JR西の企業体質を明らかにし、被害者の声を反映させることができる」(川崎友巳・同志社大法学部教授(経済刑法))*8とは思わない。刑事裁判のポイントは、24日の読売新聞が報道している*9ように、事故の予見性と元社長4人に対する注意義務の有無であるが、これを両方立証できるとは到底考えられないからである。

予見性の存在に疑問

起訴内容要旨*10によれば、元社長4人が
 
1.現場カーブ手前で相当減速しなければならないこと
(2)JR函館線の半径300メートルのカーブで貨物列車が脱線転覆事故(96年12月)
(3)東西線開通に伴うダイヤ改正で快速列車の本数が著しく増加したことを認識していたこと
2.運転士には従来以上に定刻運転の要請が強まり、現場カーブの手前まで制限速度の時速120キロかそれに近い速度で走行する可能性が高まったこと
 
から、脱線事故が予見できたとしている。
「適切に減速せずに」というのは、どの程度の操作ミスを指しているのだろう。事故当時の50キロオーバーなどというのは、「暴走進入」であり、「速度超過」というレベルではない。元国鉄マンである永瀬和彦氏(金沢工大教授)によれば、「単にうっかりミスでブレーキ時期を逸したことが原因で、カーブの制限速度を大幅に超過して脱線した事故例は皆無に近い。…そのような事例のほとんどは未熟な操縦、ブレーキ装置不具合又は飲酒に起因したものである」*11。また、尼崎事故のような電車運転は、貨物列車よりはるかに走行安定性が高く、上記(2)とは異なるタイプの事故である。このような「暴走進入」による電車転覆事故を予見できるだろうか。起訴した立場からすれば、「日勤教育によって、運転士にプレッシャーを与え、それが速度超過につながった」というのだろう。いわゆる日勤教育によって、運転手が暴走運転するケースが複数があったなら、予見できたかもしれない。だがそのような事実はない。鉄道事故調査委員会による最終報告書にも、そのような調査結果はない。
 
加えて、「予見できたかもしれない」では、有罪にはならないのである。近代刑事裁判の大原則として「疑わしきは罰せず」があるが、「予見できたかもしれない」とは「必ずしも予見できたとは言えない」であり、「急カーブへの付け替え&運転本数の増加→定刻運転の要請が増大→大幅な速度超過によるカーブ区間への侵入→転覆事故」という一連の推論が明らかにできる状況であったことを立証できなければ、有罪にはできない。明らかに推論できるということは、社長であった被告人4人はそのような推論を思いつかなかったほど経営管理力に劣っていたか、または『本当は認識していたが、「認識していなかった」と嘘をついている』という事実認定をするか、ということになる。指定弁護士主任の伊東武是弁護士は「(3被告の)供述より客観的な証拠の積み重ねが重要」「(3被告の聴取なしで)起訴内容は十分に立証できると確信している」と23日の会見で述べている*12が、この確信はどこから来るのだろう。

〈注意義務〉なぞ、存在したのか

注意義務といっても、運転者の"注意義務"ではない。JR西日本という会社の一資産の状態に対する経営者の"注意義務"である。
 
指定弁護士は「ATSは、JR西では危険性の高いカーブに整備されると認識されており、3人は鉄道本部長に設置を指示する注意義務を怠った」と主張する。だが、JR西関係者は「法令上の設置義務はなかった。当時は路線単位で整備するのが常識で、(特定のカーブなど)ピンポイントで危険を予測し、設置する考えはなかった」とする*13
 
鉄道ウォッチャーとしての完全な私見だが、このことに関しては、JR西側の言い分が正しいと考える(正確に漏れなく全路線区間にわたって「ピンポイントで危険を予測」できるか?)。このような個別の技術的投資判断に関して、巨大企業の経営トップが具体策を指示する「注意義務」があるとは、およそ考えられないが、あったとしてもそれを規定する法律は存在しない。もし六法全書に書いてあるのならば、指定弁護人は公判の中で明らかにしてもらいたい。即ち、「現場カーブへの自動列車停止装置(ATS)の整備を、部下の鉄道本部長に指示する注意義務があった」※*14とは思えない。また、指定弁護人が強調する「歴代社長は安全策の方針を実行すべき最高責任者だった」*15かどうかは、「注意義務」の有無と関連性があるようには思えない(もちろん、最高責任者であれば安全投資に対する最終責任を負うので、その投資判断によるインシデントやアクシデントに対する結果責任は最高責任者に発生するが、それは失敗に対する結果責任であり、刑事責任ではない)。
(※ATSは自動列車停止装置、ATCは自動列車制御装置という、両者の違いを理解されているかも疑わしい。ATSは、起訴状にあるような「減速させる」ための装置では元来なく、列車を止めるための追突防止装置なのである)

結果責任の取り方と再発防止について

産経新聞の社説子は、「JR史上最悪の事故は、(中略)さらに営利優先の過密ダイヤが重なって起きた。安全第一であるべき鉄道会社において、それを二の次にしていた企業体質がもたらしたといっていい。」*16と勝手に断定している※が、JR西日本にとって厳しい内容となった最終事故報告書でさえ、「インシデント等を発生させた運転士にペナルティであると受け取られることのある日勤教育又は懲戒処分等を行い、その報告を怠り又は虚偽報告を行った運転士にはより厳しい等を行うという同社の運転士管理方法が(速度超過の原因として)考えられる。」*17という” 指摘”にとどめている。なぜ「考えられる」のかということに関しては、一切触れていない。ましてや、事故原因としての断定は、一切していない。
(※「過密ダイヤ」という記述は誤りであるという議論は、これまで散々指摘されている周知の事項であるから、深入りしない)
 
冒頭で触れた柳田氏は、
 
「いまこそJR西側も、井手氏が経営の実権を握っていた13年間に、どれだけ組織を委縮させ安全対策にどのようなマイナスの影響を及ぼしたのかなどについて、被害者が納得できる形で明らかにするべきだ」
 
*18と述べている。ここで“被害者が納得できる形で明らかにする”とは、「利益優先のために安全対策を意識的に後回しにした」という言質を、殆ど黒幕扱いしている井手氏から引き出すことなのだろう。〈真実〉の内容が既に予定されているような”検証”は、「事実の究明」とは言わない。法廷の場に引っ張り出せば口を割るだろうという感覚なのだろうが、仮に口をつぐんでいることがあったとしても、刑事被告人には黙秘権がある。前述*7の川崎友巳・同志社大教授が言う「企業体質」というのも、利益偏重の経営トップの姿勢を表すのだろうが、「利益優先のために安全対策を意識的に後回しにした」という〈事実〉を、井手氏を始めとする元社長から引き出したいのなら、事実認定を求める民事裁判を起こせばよいのではないだろうか。“強制起訴”による刑事裁判では、「予見できたはず」「予見できませんでした」/「認識していただろう」「認識していませんでした」という言葉の応酬に終わってしまう。
 
一方で、経営責任は結果責任である。予見性があろうとなかろうと、歴代トップの経営姿勢と事故との因果関係があろうとなかろうと、107人の死亡事故に対する結果責任が極めて重大であることに変わりはない。いわゆる“日勤教育”やミスを報告しにくい雰囲気*19が、事故の“背景”と“考えられる”のだから、これを改善し、良好なコミュニケーション環境を構築することなども、広義の”再発防止”であり、結果責任を取ることの中に含まれるだろう。しかしこれは、リヴァイアサンたる国家権力が登場する刑事裁判の範疇では、基本的にない。強制起訴という<異例の事態>から、元社長4人が「利益優先のために安全対策を意識的に後回しにしたことが事故原因でした」と公判で謝罪するシーンを期待しているのが<市民感覚>ならば、江戸時代の大岡越前裁きレベルの、前近代的な極めて稚拙な発想*20である。

*1:産経新聞 4月22日「遺族アンケート刑事裁判、処罰よりも真相を」

*2:4月24日付朝日新聞に掲載された柳田邦男氏のインタビュー

*3:産経新聞 4月23日「【JR西強制起訴】「『ひそかな自信』にとどめて…」指定弁護士、弱気も」

*4:4月24日付朝日新聞に掲載されたインタビュー

*5:毎日新聞社説 3月29日分「JR歴代社長起訴 企業体質が裁かれる」

*6:産経新聞 4月23日「【JR西強制起訴】苦心の起訴も、終着点は『はるか遠く』」

*7:「検察審査会の本来の目的とは」郷原信郎,日経ビジネス5月10日 ※リンク先の閲覧は、日経ビジネスオンラインへの会員登録が必要です。

*8:読売新聞 4月24日「予見性、注意義務 争点に…JR西・歴代3社長裁判」

*9:ibid.

*10:起訴内容要旨

*11:永瀬和彦「福知山線事故報告書の問題点−意図的な調査と調査委員会設置法の主旨に悖る判断とを含むレポート−」

*12:毎日新聞 4月24日「福知山線脱線指定弁護士が会見 JR西歴代3社長起訴で」

*13:読売新聞 4月24日「予見性、注意義務 争点に…JR西・歴代3社長裁判」

*14:産経新聞 4月24日「JR西歴代3社長を強制起訴 福知山線脱線事故 業過致死傷罪で」

*15:神戸新聞社説 4月24日分「JR3社長起訴/真相の究明に英知を絞れ」

*16:産経新聞社説 4月24日分「福知山線事故5年 「考動」する社風の確立を」

*17:鉄道事故調査報告書「西日本旅客鉄道株式会社福知山線塚口駅〜尼崎駅間列車脱線事故」

*18:2.に同じ。

*19:読売新聞 4月24日「【労働環境】「ミス報告しにくい」3割...JR西日本労組アンケート 04/24」

*20:2008年11月13日の幣ブログ「尼崎事故―たぶん、起訴にはならない」

0系新幹線引退―ノスタルジーに浸っている場合か

44年間活躍した初代新幹線「0系」の定期運転最終日 JR新大阪駅に多くの人が集まる
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn/20081130/20081130-00000012-fnn-soci.html


細かいことを言えば、今日使用された車両が44年間走り続けていたわけではない。後継車両が開発されるまでの約20年の間、同型車両は廃車と新造を繰り返している。しかし、設計は殆ど1964年の東海道新幹線の開業当時と変わらないので、半世紀近く前の技術を未だに使い続けていることになる。高速鉄道の世界は、2007年に、フランス新幹線がついに時速300キロ超の営業運転を始め、日本の優位性は揺らぎつつある。これは、騒音問題など、実用にあたって要求される技術が、日本の方がハードルが高いことに一因があるが、それを考慮しても、高速輸送において半世紀前の技術を温存していることは、好ましい状況とは言えない。


初代新幹線の開発については、
「超高速に挑む―新幹線開発に賭けた男たち。」碇義朗,1993

「東海道新幹線」角本良平,1964
「新幹線をつくった男―島秀雄物語」高橋団吉,2000
など多くの書籍が刊行されているし、近日では、インターネットでも幾つかの特集が載っている。
例えば、

「さよなら0系新幹線 44年の軌跡と5つの物語」
「初代新幹線「0系」:ゼロから作った安全 試験車の運転士語る」
これらの後塵を拝して、本稿で講釈を垂れるつもりはない。



例によって、沿線各駅で、目を覆いたくなるほど多くの鉄道ファンでごったがえしている。この異様な光景は、はっきり言って、「鉄ちゃん=キモい」というイメージダウンにしかならないと思うのだが、かくいう私も、0系が東海道新幹線から引退する時には、小田原駅に足を運んでしまった。10年以上前の話である。
そう、JR東海は、こんな旧型車両など、とっくの昔に駆逐しているのである。
それどころか、今回引退する0系の後継者である100系車両も、2003年の品川駅開業時に駆逐している。初代「のぞみ」用車両の300系も、初期に製造されたものは、とうに廃車が始まっている。今回のニュースは、JR東海と、JR西日本の経営体力・財務状況の差を如実に示しているのである。東海道新幹線しか使わないと、「まだ、だんご鼻の車両なんか走っているのか」と感じるだろう。


国鉄分割民営化後、黒字経営を維持できるのは、本州三社のみと想定された。
看板会社として想定されたJR東日本*1は、圧倒的な収益力を背景に、「成田エクスプレス」や当時在来線最高速の「スーパーひたち」、二階建てグリーン車を連結した「スーパービュー踊り子」、全車両二階建てのMAXことE1系、等の新型車両、駅ナカビジネス、さらには鉄道業界を飛び越えるイノベーションになったICきっぷSUICAなど、続々と設備投資をした*2
JR東海は、あくまで減価償却の範囲ながらも、収益の8割を占める東海道新幹線に設備投資を集中し、2003年の品川駅開業を「第二の開業」と位置づけて、全列車の大幅なスピードアップを実現し、好調経営を続けている。
一方のJR西日本は、JR東日本JR東海と比べて、分割民営化前から厳しい経営が見込まれ、実際、その通りになった。このことと結び付けた議論は慎重になされなければならないが、福知山線脱線事故まで起こしてしまった。
JR西日本は、京阪神間で速達性を武器に、競合他社に圧倒的な優位を確立しているし、対北陸輸送では、準新幹線とも言えるほどの高速輸送を実現している。また、速達性よりも快適性を重視するニーズに対応した「ひかりレールスター」の導入など、決して防戦一方ではない。
しかし、鉄道産業は、本質的に規模の経済が大きく働くため、市場規模が小さいと、どうしようもないのである。さらに、羽田空港伊丹空港と異なり、福岡空港博多駅から非常に近いため、JR東海と同程度の高速輸送サービスを提供しても、航空機に対して、競争優位を確立できない。



今後の市場の変化としては、2011年の九州新幹線の博多開業が挙げられる。整備新幹線推進の是非はともかく、これは必ず訪れる未来である。しかし、これをもってしても、劇的に経営環境が良くなる訳ではない。
情報公開はされていないが、在来線(山陽本線)と合わせると、山陽線は赤字ではないかと言われている*3山陽新幹線を造らなかったら、中国方面の旅客輸送はジリ貧になっただろうから、建設自体が間違っていたとは思わない。しかし、JR西日本が、未だに「0系引退」なんていう設備投資の段階であることは、今後の整備新幹線の建設に関して、示唆を与えている。半世紀前のノスタルジーに浸っている場合ではない。

尼崎事故―たぶん、起訴にはならない

尼崎脱線 JR西社長ら書類送検

http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a3%ca%a3%d2%c0%be&k=200809/2008090800637

 

今回のポイントは、以下の3つと見る。

  1. 刑事罰の適用可能性は排除しなかった
  2. 追及するのは管理責任までで、経営責任は不問になった
  3. 全面決着までには、3合目くらいに過ぎない

ポイント[1]

送検したということは、事故現場を捜査した結果、刑事責任の存在可能性を排除できないと言ったに過ぎない。起訴は前提としているのものの、一番重い「厳重処分」ではなく、「相当処分」での送検になったことがこれを示していよう。間違っても、警察が、JR西の責任を認めた、とかいう意味ではない。どうせ在阪メディアはこのような論調になるだろうが、これは明確に誤りである。

ポイント[2]

「社長が送検」という報道が一部されているが、今回は、事故当時の経営者を送検したのではない。現社長がたまたま安全管理の最高責任者だった(というか、それゆえに、事故後社長に抜擢されたのだが)からである。経営責任を追及するのならば、いわゆる新型ATSの整備という設備投資計画を決定した経営層全員を(一部遺族が主張するように)送検しなければならない。山崎現社長のみを対象にしたのは、刑事的に追及できそうなのは管理者責任までで、経営責任の追及は到底無理だと、兵庫県警が判断したからに他ならない。いつもの事ながら、ほとんど、作為的なミスリーディングである。

 

[1]に関して、タイトルに付したように、刑事としては、書類送検どまりだろう。過失責任を問うのは、困難であるからである。過失責任が生じるのは、

1;事故原因と結果の間に因果関係が存在する

ことを前提に、

2;事故の発生に関して予見可能性が存在

し、その上で、

3;事故を回避する可能性が存在する

ことである。

今回の場合で言えば、

1と3は満たされているだろうが、2は難しい。具体的には、

1;速度超過と列車転覆の間には、物理的因果関係が存在し、

3;いわゆる新型ATSを(適切に)導入すれば、大幅な速度超過及びそれに伴う列車転覆は回避できる。問題は2;である。兵庫府警は、貨物列車の速度超過による脱線事例の存在をもって、予見可能性を主張しているようだが、「(事故調の最終報告書が言うような)余裕の無いダイヤやいわゆる日勤教育が原因で、一運転士に心理的負担がかかり、それが曲線部における暴走を引き起こし、それが大惨事をもたらす」ことを事前に予見せよ、というのは、私はかなり無理があると思う。運転士による暴走の可能性、といったレベルまで漏れなく予見しようと思えば、リスクアセスメントに終わりがなくなってしまう。現場作業員に要求する一定の信頼性を外してしまえば、考えられるケースは無数に出てくるだろう。鉄道運営の企業形態に関わらず、冷静に考えれば、それは無茶だ。

 

ちなみに、「起こるべくして起きた」という主張もあるが、このような主張をしているのは、主に、信楽高原鉄道脱線事故において、JR西と”民事”訴訟で争った人たちによるということを、念頭に置く必要がある。また、新型ATSの整備率をJR東と比較する議論もあるが、財務状況も経営環境も異なる両社を、旧国鉄という理由だけで同列に論ずるのも、明らかにフェアではない。首都圏の輸送規模は、関西圏の輸送規模の2倍以上、新幹線の営業規模の違いも大きい。毎度の事ながら、報道にあるノイズは、割り引いて考えないといけない。

 

[2]に関して、検察が起訴するということは、事故当時の管理者の刑事責任を認め、彼らを”犯罪者”として、「懲役○年」という刑事罰を要求するということである。「経営上のリスク判断を誤ったら、お縄になって、塀の中で何年も蹲まることになるかも知れない」というのでは、誰も旅客輸送の経営に携わろうなんて思わないだろう。これぞ、リヴァイアサンたる、国家の暴力性である。司法における、推定無罪の原則の根拠も、ここにある。もし、「悪いことをしたやつは、懲らしめるべきだ」と一般に考えられているのならば、国家の暴力性について、あまりにナイーブな感覚と言わざるを得ない。それでは、悪いことをした人間にお代官様が裁きをするという、前近代的なシステムと何の違いも無い。この国は、近代国家である。誤解してならないのは、”責任”とは多様な概念であり、刑罰を受ける対象としての刑事責任、法人としての民事責任(例えば、賠償責任)、経営者の経営責任(これは結果責任)、最近流行の社会的責任、等はそれぞれ別物であるということである。”責任”を議論する際には、責任を負う主体は誰(例えば、法人としてのJR西)で、誰に対して(例えば、被害者に対して)、どのような(例えば、損害賠償責任)が生じ、それは上のいずれであるのかを、明確にしなければならない。警察・検察が検討しているのは、国家による刑(事)罰を科することが妥当かどうかであって、それ以上のことではない。尼崎事故について言えば、”真相解明”ですら、警察の役割ではない(これは事故調の役割である)。

 

刑事責任を認めないからといって、JR西を擁護していることには全くならない。実際に事故で物理的被害が生じた以上、結果責任は明らかであり、JR西は、被害者及び遺族に対しての賠償責任を遂行しなければならない。損害賠償が支払えずに、JR西が潰れたとしても、全く致し方ない(現実には、保険会社の後ろ盾があるから、潰れることは無いが、これは責任の有無とは別の話である)。賠償責任の発生と、先に述べた、予見可能性や、結果回避可能性とは、殆ど関係がない。場合によっては、因果関係が満たされなくても、賠償責任が生じるろう。但し、繰返しになるが、そのことと、国家によって刑事罰を科するかどうかは、区別されるべき問題である。

 

今回の送検は、尼崎事故があまりに衝撃的だったゆえに、「司法側として、最大限できることを模索した」という姿勢をアピールするということで決着をつけるという、司法側の姿勢を表したことになると思う。送検前に、事故被害者に送検内容を説明した、というのも同じであろう。メディアでは”極めて異例”と、オブラートに包んだ言い方をしているが、原則論で言えば、これはまずい。書類送検前に、事故のステークホルダーの一方である遺族側に、送検内容をめぐって接触するのは、送検内容の客観性が揺らぐ恐れがあるからだ。ご遺族に心を傷めていた警察側が、捜査に影響を及ぼさない範囲で、最大限の配慮をした、ということなのだろう。プロセスの正統性は少し逸脱していると思うが、これくらいのフレキシビリティはあって良いと思う。

ポイント[3]

今後の展開として、被害者及びご遺族に対する、現在の官僚的すぎる形式的なJR西の対応がそのまま延長されるなら、一部のご遺族は確実に納得しないだろうから、示談不成立で民事訴訟に持ち込まれるだろう。民事裁判では、事実関係が争われるだろうが、この場合、遺族側は旧経営陣の経営責任を問うだろうから、経営上の過失についての事実認定で争うことになる。JR西としては、過失責任を認めれば、企業及び業界の存続が危ぶまれるから、賠償金の大小はともあれ、この事実関係については、全面的に争う姿勢をとるはずだ。こうなると、刑事不起訴→民事訴訟→民事地裁判決&どちらかの控訴→民事控訴審→民事控訴審判決、という気の遠くなるような展開になり、そのたびに、在阪TV局を中心に、遺族側に同情した体の、センチメンタルな報道が繰り広げられることになる。今回の送検に際し、「何でこんなに時間がかかるのか」というご遺族の声があったが、最終決着までは、残念ながら、半分も過ぎていないというのが、私の見方である。信楽事故のように、事実認定に関して、刑事と民事の判断が異なるような展開になれば、話はさらにややこしくなる。見ていて非常に嘆かわしいが、今の「この国のかたち」では、このような事態は避けられそうに無いと思う。

 

起こした事故の甚大さに対して、これではJR西のダメージが少なすぎる、と思う人もいるだろうが、私は必ずしもそうは思わない。東海道新幹線の開業や国鉄の分割民営化に携わった、国鉄OBの角本良平氏は「JRは2020年に存在するか」という刺激的なタイトルの本を書いている。今後10年くらいの間に、現在のJR7社体制は再編を迫られるというものだ*1。私はこの再編の交渉過程で、尼崎事故のマイナスイメージが響いて、JR西がかなり不利な立場に置かれるのではと考えている。現在は一段落しているが、民事訴訟のステージになれば、在阪メディアを中心に、JR西バッシングが再び盛り上がるだろう。会社にとって、自らの存続は、至上命題である。これが脅かされるのだから、尼崎事故がJR西に与えるダメージは、計り知れない。猪瀬直樹(現東京都副知事)が言うように、JR西が、民間企業として「利益追求」に徹していたならば、むしろ尼崎事故は起きなかったかもしれないのだ。

 

費用便益分析も知らずに、栗東市長に
「もっと勉強してください。私も勉強してますから」
とかなじられる怠惰なマスコミどもに、当方を論破することができるとは思わない。