北陸新幹線延伸は、湖西ルート以外、”ありえない”
今日の日経朝刊は、経済面トップが整備新幹線の記事です。
(北陸新幹線延伸 5案乱立 JR西、小浜・京都ルート提示 利害巡り綱引き必至)
鉄道ネタが日経紙面のトップになるのはかなり珍しいことなので、できるだけ簡潔に解説します。相変わらず、「新幹線は地域振興の起爆剤」と思われているようで、とても嘆かわしいです。新幹線は、高速鉄道計画ですから、速達性が何よりも重要です。
他のこと(経済効果、〈地方創生〉)などは、二の次三の次。米原ルートと湖西ルート以外は、この大原則に従えば、即座に破棄されるべきことは、小学生でもわかります。小浜経由ルートがなぜ最短ルートになるのかは、からくりがあるようです。舞鶴経由ルート(”西田氏案”)に至っては、苦笑するしかありません。何のために新幹線を建設するのか、西田昌司氏は目的を取り違えていると言わざるを得ません。
ちなみに、北陸ー関西間は、新幹線かと錯覚するほどの高速列車(特急「サンダーバード」)が運行されています。途中経由する琵琶湖の西側を走る湖西線は、全線が高架でカーブも少ない優良路線です。これは、湖西線が、新幹線に準ずる機能を発揮できるように建設された路線だからです。北陸ー関西間で高速鉄道を整備するなら、湖西線を活用すべきなのです。
速達性では米原ルートという手もあるのですが、現状の東海道新幹線に、他の路線の便を走らせる輸送容量の余裕は全くありません。したがって、新幹線を作るなら(そもそもこの前提も要検証なのですが)、湖西線を新幹線も走れるようにし、その他の区間を新規路線として建設すべきです。「横風が走行の妨げ」? そんなの、防風壁を設置すれば済む話です。
【ちなみに…】
整備新幹線問題に関して、ご関心のある方は、以下拙稿をお読みください。古い記事ですが、問題の本質は全く変わっていません。
「東北新幹線新青森開業に寄せて」(2010、長文注意)
【2.3追記記事】
北陸新幹線の延伸ルート、「小浜-京都ルートなら湖西線は並行在来線を検討」滋賀県知事
【2.4追記記事】
北陸新幹線、「関空まで」延伸要望 関経連、検討委で
随想〜責任論と技術論-尼崎JR脱線事故10年
あの事故から今日で10年になります。
おそらく、刑事事件としては、最高裁で上告棄却となると思います。私は7年前に不起訴になるだろうと論じました。私の予想が外れ、第二審まで行ったのは、検察審議会が強制起訴したからで、元々の検察判断は不起訴でした。理由は7年前の投稿で詳述したのでそちらもお読み戴ければと思いますが、過失要件を満たさないからです。「誰も責任を問われないのか」という意見がありますが、刑事責任を問われるということは、殺人罪が適応されるということです。例えば、高速バスで事故が起き、死傷者が発生したとして、バス会社の経営陣が業務上過失致死罪を問われるでしょうか。殺人罪で無期懲役になるでしょうか。違いますね。バスと鉄道では違う部分もありますが、もし、敢えて、運転士以外の刑事責任を考えるなら、それはJR西日本という法人に対する責任でしょう。輸送サービスを提供したのは、法人であり、個々の経営幹部ではないからです。しかし、法人への刑事責任というのは、法律的にありえません。この事故を機に、“組織罰”を問えないかという議論があるようですが、10年経っても議論の進展が何もなかったことが、法的に難しいことの証左でしょう。JR西日本を弁護しているのではありません。あれほどの甚大な数の犠牲者を出した会社に、経営責任がないはずがありません。経営責任は結果責任です。結果が全てです。原因がどうであれ、新型ATSの整備を後ろ倒ししなければ、事故は防げた可能性が高いという結果が全てです。刑事責任はほぼ確実に問われないことはわかっていたはずですから、民事制度の元で被害者と早期に和解を探る道を模索すべきだったとも考えます。
今回の事故の核心は、あまりに不可解な運転士の行動でした。脱線というより転覆といった方が正しいのです。そして、転覆による脱線事故というのは、ほとんど類がないのです。いわゆる日勤教育などのJR西日本の〈体質〉は、運転士の行動に影響を及ぼした”かもしれない”遠因にすぎません。当該運転士が死亡してしまった以上、それ以上の原因・因果関係は知りようがありません。「新型ATSが設置されていれば、防げた可能性が高い」という結果責任は免れないですが、逆に結果論にすぎないとも言えると私は考えます。ATSとは、本来、速度超過による転覆を防ぐものではないからです。一例を挙げると、JR西日本は、東海道・山陽本線の新快速を時速120キロから時速130キロに引き上げた際、ブレーキの性能を向上することで安全基準をクリアしました。つまり、地上側の設備ではなく、走行車両の性能で対応しました。ATSとは、自動列車”停止”装置の略で、ATS整備の歴史は、速度超過による転覆事故などではなく、列車追突事故を防ぐためのものなのです。自動列車”制御”装置(ATC)は、日本の鉄道網広しと言えども、限られた路線にしか設置されていません。いろんな性能の車両が走る路線に設置することはできないのです。もっとも、速度照査機能を搭載したATCに近い”新型ATS”もあり、福知山線ではこれの設置計画がありましたが、ピンポイントで列車速度をコントロールするという発想はありませんでした。”転覆”事故防止対策を先送りしていたとは言えないのです。同様に、事故現場のカーブをより急なものにつけかえたことが問題だという主張も誤りです。事故現場のようなカーブは、日本中に文字通り星の数ほど存在するからです。
「通い慣れた線路を運転する運転士は大きな制限速度のある位置は知悉しており、目を閉じて運転してもブレーキ時期を逸することは、先ずありえない」と述べていますが、これは間違っていないと思います。私は、20年来小田急線を利用しているのですが、目をつぶっても、大体どこを走っているかは分かるのです。ましてや、専門的な訓練を受けた者なら、多少ぼぉっとしても、すぐにブレーキをかけるはずです。ところが全く不可解なことに、この事故では、運転士がブレーキをかけた形跡がないのです。事故原因を調査した事故調査委員会の最終報告書では、「本件運転士が…注意が運転からそれたことについては…日勤教育又は懲戒処分等を行い、その報告を怠り又は虚偽報告を行った運転士にはより厳しい日勤教育または懲戒処分等を行うという同社の運転士管理手法が関与した可能性が考えられる」としていますが、あくまで”可能性”としてであって、直接の事故原因として断定はしていません。多くのメディアで〈利益偏重・安全軽視の体質〉がバブルのごとく喧伝され批判されましたが、今議論した技術的視点に立てば、事故から学ぶことはあっても、これらの”遠因”でもってJR西日本を必要以上に批判することは、あたらないのではないでしょうか。繰り返しになりますが、JR西日本を弁護しているのではありません。
“絶対の安全”は、科学的に存在しません。存在するなら、それは宗教の中です。「安全の取り組みに完成はない」という言い方は、この意味において理解すべきことです。残余リスク、即ち想定外の”摘みきれないリスクの芽”は、システムには必ず存在します。”失敗学”の第一人者である畑村洋太郎氏は『「想定外」を想定せよ!』という、非常に問題のあるタイトルの書籍を出してしまっていますが、そんなことは人間には不可能です。どこかで「ここまでで十分」という範囲を決めてやるしかありません。事故から学ぶという取り組みも、この考え方を踏まえないと、被害者側にとっては終わりのない闘争になってしまいます。安部誠治氏(関西大学)は、「組織の意思疎通を徹底し、万全な安全文化を目指すために、もう一段の取り組みを考えるべきときではないか」などと述べていますが、上記の議論を認識しているとは、到底感じられません。
10年経ったというだけでは、何の意義もありません。脱線と一口に言っても、そのメカニズムは個々に違うと言っても言い過ぎではないのです。今回の事故で、脱線事故というカテゴリーがあまり意味を持たないことが露わになったとも言えます。今日明日だけ、断片的な俄情報でもってテレビがちょっと特集を組んだり、新聞社が社説を出したりするのでは、”喉元過ぎれば熱さを忘れる”ではないでしょうか。今日は、犠牲者の方のご冥福と、負傷された方の1日も早い恢復を静かに願う1日にしたいと思います。
JR北海道 ”完全上下分離”で組織再構築を
北海道新聞「JRが今やるべきことは明白だ」
メスを入れるべき組織の病巣がどこにあるか、見当はつくだろう。 安全軽視の背筋が寒くなる実態を許してきたのは本社のずさんな管理体制だ。 安全最優先の組織で人心の荒廃が進んでいると言うしかない。
(9月29日付社説より抜粋)
何を根拠に“病巣”の“見当”を、“本社”の、つまり経営者側の“管理体制”の“ずさんさ”につけたのか、”人心の荒廃”とはインタビューでも取ったのか、 “現場の”「人員と資材不足」という”声”だけが根拠だとしたら、それこそ“ずさんな”分析である。「レールのデータ、社内で共有ルールなし」*1 「現場の独自判断で枕木交換していた」*2,*3等、インフラ設備管理の驚愕の実態は、“ずさんな管理体制”ゆえなのか、それとも現場と経営側の力関係が逆転しているゆえ本社が機能不全に陥っているからなのか、その両方なのか。頭から決めつけることは危険である。
「組織、体質の問題で極めて悪質」菅官房長官発言の真意
組織体質/風土・企業体質/風土という言葉は、企業の不祥事を批判する際に頻用されるが、実は学問的な定義はない。つまり、この言葉が発せられた時は、眉に唾を付けた方がいい。タイトルの菅官房長官の発言には、真意があるという。“政府関係者”によれば、「あの菅長官の発言はJR北海道の異常な労使関係を念頭に置いたもの」という。“政府関係者”というのは、マスコミ業界での隠語で、でっちあげの記事ではない証左である*4。菅官房長官が念頭に置いたとされるJR北海道の労使関係は、週刊文春・週刊新潮のそれぞれの10月10日号に詳しい。両誌によれば、社員の8割以上が所属する北海道旅客鉄道労働組合(以下、北鉄労)では、「彼ら(注:北鉄労)は組合員に、我々、他組合の人間とは『職場で会ってもあいさつするな、談笑するな』と指導している」*5という。太田昭宏国交相は4日午前の閣議後会見で「鉄道では各現場の確実な意思疎通が重要だが、JR北海道は監査の結果、不十分だと明らかになった」と述べている*6が、このような職場で、“確実な意思疎通”などできるわけがない。言うまでもなく、鉄道は、走行車両・軌道・信号保安システム、それら等を支えるヒト・モノ・カネで構成されるシステムである。システムの要素間での意思疎通に不全が生じれば、システム全体の安全運行は覚束なくなる。
毎日新聞によれば、今年1〜2月、JR北海道は社員に対し「働きがい」についてアンケートした結果、「経営理念への共感」「変革への行動、当事者意識」といった項目が、”他の会社の平均と比べて極端に低かった”*7。毎日新聞は「会社が「安全重視」を打ち出しても、現場はしらけている」と批判するが、現場と経営側の力関係が逆転しているとすれば、当然の結果ではないだろうか。このような実態が、経営幹部の首をすげ替えるだけで解決するはずが無い。根本的に企業形態を見直す必要がある。
「「新幹線開通で何とかなる」と道民の多くは信じている」*8
鉄道の路線ごとの収支採算は、どの事業者でも明らかにされていないが、週刊東洋経済の独自試算によれば,千歳線以外は全て赤字である。道民はそれを薄々分かっており、だからこそ北海道新幹線開業での“一発逆転”に望みをつないでいるのではないだろうか。だが、単純に札幌まで新幹線を引くだけでは、状況の打開にはならない(このことについては、別稿の5で詳しく論じたので、そちらをお読み戴きたい)。
JR北海道を含むJR三社が、鉄業事業としてはマイナスの価値しか持たないのは、国鉄分割民営化の初めから分かっていたことであり、「会社の金欠状態」を安部誠治関西大教授*9やハフィントンポストに今更指摘されるまでもない、事情通にとっての常識である。
現場と経営陣とのコミュニケーション不全、即ち、どこにいくら(何を)必要とすべきなのか、明確な情報共有がされていない。このJR北海道の現状を打開するには、上下分離政策を行うべきである(“上下分離”については、稿末で解説する)。また、現場と会社側のコミュニケーション不全・相互不信を鑑みれば、会計上のみの上下分離だけではなく、企業構造を根本から変える、完全上下分離が望ましい。完全上下分離は、分社化された複数のインフラ会社が情報共有できず、安全運行に支障をきたすリスクがある*10が、幸いにしてか、JR北海道は非電化区間が殆どである。行政単位も北海道のみである。理想的には道州制の導入が先立つべきであろうが、インフラ会社は北海道営の単一会社にできる。残りの列車運行のみを現在のJR北海道にする。JR北海道の鉄道事業内容は大きく変わる。否応なく組織の変容が必要になる。
JR北海道の一連の不祥事で、観光や事業への安定継続にまで懸念が出ている*11。決して実体経済が良いとは言えない北海道にとって、観光産業への打撃は避けなければならない。JR北海道は、100%国が株式を保有している。今回の問題は、国が三島問題の答えを出す時だ、という啓示と捉えるべきではないだろうか。
***上下分離について***
鉄道の経営形態は、主に3つある。 1) 列車運行とインフラ設備管理を同一の企業が行う形態 日本ではこの形態が殆どであるが、海外ではそのケースはむしろ珍しい。 2) 列車運行とインフラ設備管理を別々の会社が担う “完全上下分離” 鉄道というインフラを、特定の運行会社に限定しないせずに解放する形態である。 3)会計上の上下分離 経営形態は、会計上は列車運行とインフラ設備管理を分離するが、営業活動としては同一の経営体として運営する*12。 それぞれに、メリット・デメリットがある。
事故原因は、システム工学が設計思想になかったからでは?
東北新幹線全線開業―本当にこの”形”で良かったのか?
(本文は、約18000字です)
未だに消えない“地域振興・経済活性化の起爆剤”信仰
「今必要なことは、交通における目的と手段の関係について正しい認識をもつこと、すなわち手段を目的視してはいけないという認識をもつことである」角本良平(国鉄OB,交通評論家)*2
これらの指摘は1990年代中盤に出たものである。一方、昨日の交通新聞の記事にはこうある。
(東北新幹線の新青森開業は)首都圏〜北東北エリアの高速交通体系の充実化に伴う地域振興・経済活性化に向けた1つの起爆剤として注目を集める。
15年間、全くの思考停止状態だったことが読み取れる。
言うまでもなく、外部経済(効果)には、プラスマイナス両面のものが存在する*3。
外部不経済の代表は、いわゆるストロー効果である。「悲願だった」という割には、東北では直近の八戸駅延伸開業ですら、実際にどのように地域振興政策と連携するかは定まらないまま、30年間以上プロジェクトの見直しもしないまま、結局見切り発車を迎えた*4。リーマンショックや地方経済の疲弊は言い訳にもならない。万歳三唱で一番列車を見送るというのは、未だ新幹線を記号*5でしか捉えられていない思考状況を暗示している。新函館駅までの北海道新幹線も既に着工しているが、青函トンネル内での新幹線電車と貨物列車の行き違い時の安全性という基本的な技術問題すら未だに放置したままの着工である。東奥日報の今朝の社説が、見切り発車ぶりを物語る(太字は引用者)。
新幹線全線開業により……県内を訪れるさまざまな人々に心を尽くし、あたたかく迎えたい。そしてその積み重ねによって、本県の社会・経済の水準が高まっていくことを望む。
……県内各地と首都圏との距離・時間差は人々にとり便益を失うこと。これを縮める巨大な交通インフラ・東北新幹線という光彩が、県民の暮らしに質的な進歩をもたらすものと信じたい。*6
「『整備新幹線は採算性に問題』は根拠不明の単なる決まり文句*7」ではない
並行在来線の問題は、絶対に解決しない。在来線単体で黒字にできるなら、そもそもJRからの経営分離の対象にならないからだ。どうやっても黒字が見込めないから経営分離するのであり、赤字は宿命である。現在でも収支採算が取れているか怪しい状況で、総供給量を増やしたら赤字が増えるのは、自明である。「もう少し工夫し、第三セクターのかかっている経費、利用者数、その他の新幹線によってもたらされる収益などをうまく分け合えば(問題は解決する)」*8というのは楽観的すぎる。小手先の対応では、どうしようもない。
上の”並行在来線解決案”は、元国鉄キャリアの野沢太三自民党元参議院議員によるものだが、同氏が主張する*9ように、「新幹線は造れば造るほど赤字がまた増える」は、確かに誤りだ。建設費は全額税金であり、JRは利潤を上げた場合に納税をすれば良い。旧国鉄のように、赤字の投資や路線運営を強いられることはない。しかし、プロジェクト全体で黒字であるかのようなニュアンスは正しくない。並行在来線の新規赤字コストをカウントしていないドンブリ勘定だからだ。このような試算に、例えば、京大土木系の中川大教授*10らによる「整備新幹線評価論 ◆先入観にとらわれず科学的に検証しよう」がある。著者らは「これからの時代に向けての社会資本整備は、真に優れた事業が厳選されて進められるべきであり、そのためにはすべての事業が公平に評価されなければなりません。整備新幹線も、先入観にとらわれることなく、新たな時代においての必要性を科学的に評価することから議論を始めるべき」と謳い、「『整備新幹線は採算性に問題』は根拠不明の単なる決まり文句なのでは?」と述べているが、これは明らかに誤りである。道路公団民営化議論の際も「建設推進派」扱いされた学識経験者が同趣旨のことを述べていたが、インフラ整備の際に使われる採算性とは、収支採算性のことではなく、投資採算性のことである*11。もちろん、並行在来線問題という収支採算性も考えないといけない。この外部不経済まで考慮に入れた投資採算性の議論は、聞いたことがない。仮に、トータルで黒字であったとしても、外部不経済の効果を重く見るなら、そのプロジェクトは実施しない、という判断もありうる。
「うなぎを注文したのに、穴子やどじょうが出てきた」
今更言っても始まらないのだが、今回の開業区間は”フル規格”で作るべきではなかった。
今日では、整備新幹線の建設は既存の新幹線と同じ規格だと考えられているが、国鉄分割民営化直後の一時期は、建設費の圧縮のために“ミニ新幹線方式”や“スーパー特急方式”が検討された。結局、「ミニ新幹線では時間短縮効果が乏しく、航空機に勝てない」と、全ての計画路線がフル規格になったが、東京と終点の輸送だけを比較しているから、このような議論になる。東名阪のように両端間の移動に需要が集中しているなら意味のある議論だが、東京―北東北、東京―信州といった地域では、遠隔地で分散的に客を拾うというのが輸送実態であり、フル規格の特性は十分に発揮できない。実際、長野新幹線では、フル規格の特性が発揮されるノンストップ便は現在に至るまで一日一便のみである。むしろ、停車パターンを柔軟に設定できる在来線流用方式(ミニ新幹線)の方が適している。始発終電は普通種別で運行、といったことも可能になる*12。フル規格では、新幹線の駅が設置されない特急停車駅が、全て切り捨てられてしまう。長野新幹線の場合は中軽井沢、小諸、戸倉、篠ノ井などの各駅、今回の開業では三沢、野辺地、浅虫温泉などの各駅が該当する。「ブログ市長」で話題の阿久根市政の混乱も、かつて特急停車駅だったのがフル規格建設で切り捨てられ、ローカル線の駅に転落したことに一因がある*13。また、青森駅ではなく「新青森」駅なのは北海道新幹線の延伸のための立地であり、同駅は青森市街地から4キロも離れたところにある。ミニ新幹線方式なら乗り換えなしでダイレクトに青森駅に行ける。ミニ新幹線案に対して「お茶をにごす幼稚な案」と自民党運輸族議員は"断固拒否"していた*14が、幼稚なのは「鰻か穴子か」という記号上の思考に留まっていた運輸族の方だった。マクロな整備計画に対し、このようなミクロの発想をしていたのは、鉄道アナリストの川島令三氏くらい*15だった。
“スーパー特急方式”も今は死語と化しているが、これは都市部では在来線を流用し、都市間ではフル規格に準じた設備にするという方式である。これも“穴子””どじょう”だと揶揄されたが、東海道新幹線の建設時には、地価の高い都市部まで新規に線路を敷設するのは賢明でないと海外から批判を受けたのである。東北新幹線は、盛岡―大宮間と都心部(上野―大宮間)の建設費が同規模になってしまった。在来線も標準軌のフランスでは、新規路線建設は都市間に限られる。が、「福井・石川は原発で苦労をかけているから」という森首相(当時)による見返り対価でフル規格になった*16。全く筋違いの政策判断であり、インフラ整備プロジェクトとしての妥当性を検証した結果ではなかった。加えて、対北陸輸送は、ほくほく線による越後湯沢周りというルートを別に作ってしまっていた。鉄道専門誌の中でも最も楽天的な「鉄道ファン」誌*17ですら、ほくほく特急は消滅するだろうと予測している(前出の川島はこれを“2014年問題”と呼んでいる*18。)。高速輸送のための準新幹線と言える高規格設備は、ローカル輸送には全く不要で、大きな経営の足かせになる。勿論、森元首相を始め、意思決定をしたものは誰も責任を取らない。対北陸輸送は、ほくほく線を活用したスーパー特急形式にし、信州方面は長野までのミニ新幹線形式にすべきだった。そうすれば、並行在来線の問題も、2014年問題も発生しえなかった。いずれも、需要状況・輸送実態に応じて、建設規格を選択するべきだった。
<国土の均衡ある発展>は、理論的にありえない。
整備新幹線の実現は、「整備新幹線は国家プロジェクトです。ご理解いただきたい」という"鶴の一声"ならぬ、亀井静香建設相(当時)の"亀の一声"で決まった*19。亀井公の発想は「大都市の東京と大阪だけ、交通システムが便利なのはおかしい」「北海道から九州まで新幹線をつくれば、東京一極集中を是正できる」という観念的にすぎるレベルだった*20。本稿冒頭の角本博士の言葉を、想起されたい。都市部ですら、都心部から30分前後で駅から徒歩通勤できる近郊部と、概ね1時間以上の通勤を要し、クルマなしには生活できない郊外部の”格差” が存在する。利便性と快適性のトレードオフはどこでも存在する。各人が自分の価値観の中で折り合うところを選択している。「日本中どこでも格差をなくし、住み心地が変わらないようにする」なんていう目標*21は、全くの机上の空論である。全国ほぼくまなく同じテレビ番組が見れて、郵便・宅配便が送れて、スーパー・コンビニで都市部とほぼ遜色なく自由にモノが買えるというのは、大都市経済の恩恵である。地方経済単独で、先進国レベルの生活水準はありえない。
逆に、山手線の輸送電力が信濃川上流の発電から賄われていることに代表されるように、地方の負担なしに大都市部の経済は成り立たない。お互い持ちつ持たれつであり、「均衡ある発展」論はこの構造を無視している。新幹線は、憲法第25条が保障するところの、健康で文化的な最低限度の生活に必要不可欠なインフラとは考えられない。そう主張する人はその論拠と論理を具体的に示す必要がある。
どうする北海道新幹線?“超・新幹線”で一発逆転を図れるか?
「フル規格でないと、航空機に勝てない」という上述のフル規格論は、鉄道が分担できる範囲はそのあたりが限界であることを意味する。それより遠方では、航空機の分担範囲である。東京―福岡間の輸送の9割が空路である*22ことがこれを示す。北方方面では、青函が分水嶺になる。新青森駅と同様、新函館駅は函館駅から18キロも離れ、駒ヶ岳山麓との中間地点に予定されている。事実上、札幌までの全通を前提とした立地である。戦艦大和・伊勢湾干拓と並び「昭和の三馬鹿」と当時の大蔵省主計官に酷評された青函トンネルも、本来の主目的は新幹線である。札幌駅の北側には新幹線ホーム用の用地が確保されている。八戸以北のフル規格という投資が見合うためには、札幌まで作るしかない。しかも、大幅なスピードアップが条件である。前出の川島は、時速350キロ運転をすれば、東京―札幌間は3時間25分で結べるという試算をし*23、「整備新幹線不要論は誤り」と主張する*24。東北新幹線の「なすの」が時速240キロ、山陽新幹線の「のぞみ」が時速300キロだから、これは今までの新幹線のイメージを大きく越える*25。スピードを出すこと自体は難しくない。実用化できる技術的な実現可能性は五分五分といったところだろう。過去の投資金額の大小を斟酌して未来の投資行動を決めるのは非合理な決定行動(”コンコルドの誤謬”)であり、MBAの科目試験なら零点の解答だが、ここは必ずしもそうではない。青森―東京の既存資産価値が、変化するからだ。貨物対策には、まさかもう一本青函トンネルを掘るわけにはいかない。巨額*26を投じて、上下線の間に壁を作るしかないだろう。
仮に3時間運転が実現できても、従来のような新幹線の価格設定では、到底航空機にかなわない。北海道新幹線だけで収支を取る独立採算制の新会社を立ち上げるなら別だが、内部補填の材料を手放せばJRの経営は破綻する。それが可能なら、東海道新幹線はもっと安くできる*27。それこそ、日本経済活性化の起爆剤になる。これができるには、赤字路線を遠慮なく経営分離できることが必要で、赤字部門を企業内部で補填するのは、鉄道の公共性に鑑みて好ましくない。対北海道輸送は、羽田空港において、ぶっちぎり第1位のドル箱路線である*28。この市場が航空機の独占でなくなれば、航空機は減便を迫られ、国際空港になった羽田空港の発着枠に余裕ができ、羽田空港のハブ化に寄与するだろう。ここまで見込んだ政策で初めて実行の価値があるが、間違いなく航空会社は反対する。高速道路無料化の政策と同様、市場の公平性に悖るからだ。「(最近でも6000億円ある北海道の公共事業枠のうち)その十分の一くらいのをちょっと回してもらえれば北海道新幹線はすぐに実現できる」*29というのは共感はできるが、関係者を説得する言葉を政治の側は持つだろうか。
地方が自律的に政策判断する仕組みの構築を
本来、財政の順番としては、国鉄債務の返済が先である。これが、既存の東北・上越新幹線の建設費を含むからだ。*30,*31
建設を”陳情”するだけで自分の懐が痛まないから、分不相応にも”うなぎ”を注文する。交通機関を新たに作ったら便利になるのは、当たり前である。たとえ空気輸送になっても、そのわすかな利用者にとっては便利になる。これが、限りある自分の財布からなら、食事はあきらめて他のことに使う、という選択の思考が出てくる。勿論、他のことを我慢して食費に費やしてもよい。全ては自己責任であるべきで、コミュニティのデザインにおける交通のウェイトやその内訳(新幹線か道路か空港か)は地方ごとに違って当然である。
現在のように、各プロジェクトの責任主体が複数の都道府県に分散していると、新幹線建設を推進する(断念しない)という路線のみが既定路線になってしまい、負の解決責任をお互いになすりつけ合うことになる*32。道州制は一つの答えになるだろう*33。地域主権という言葉は、保守層には国家主権の解体だとみなされ評判が悪い*34が、従来の地方分権では不十分という発想に基づく言い回しである。
前出の角本博士は、10年前にこう述べている。
整備新幹線はおそらくまず盛岡以北に開通し、その利用度と費用とが実証される。
……国・地方の債務累積が深刻であれば、新規着工は進まない。*35
本日の東北新幹線全通と、来年3月の九州新幹線全通で、整備新幹線建設は一区切りを迎える。三菱総研の平岩和昭研究員は「新幹線は地域振興の必要条件ではあるが、十分条件にはなり得ない。」*36というが、本当に必要条件なのか?二言目には、新幹線はインフラとして必要不可欠だと言われるが、本当にそうなのか?前出の野沢氏は「新幹線は採算が取れ、JRにも、乗客にも、地方にもありがたいシステムで、……公共事業として大切にしなければならない」という*37が、話を単純化しすぎなのは、以上見てきた通りである。経済対策としてではなく、純粋な公共交通整備事業としての効果検証が、これから求められる。 了
*1:「整備新幹線―政治新幹線を発車させた男たち」澤喜司郎,近代文芸社,1995.
*2:「交通の改革 政治の改革―閉塞を打破しよう」角本良平,流通経済大学出版会,1997
*3:地元ですら、懐疑的な見方がある。例えば、東奥日報の特集「第4部 盛り上がり(2)青森市民の声/「開業効果低い」と閉店/周辺整備遅れ期待感薄く」などを参照。
*4:「地域振興と整備新幹線―『はやて』の軌跡と課題」櫛引素夫,弘前大学出版会,2007.
*5:
*6:「実現した県民40年の悲願/東北新幹線全線開業」東奥日報12月4日(土)社説
*7:「整備新幹線評価論 ◆先入観にとらわれず科学的に検証しよう」中川大,波床正敏,2000.
*8:「新幹線の軌跡と展望―国会で活路を拓く」野沢太三,創英社三省堂書店 ,2010/07.
*11:並行在来線は経営分離して構わないというスキームにすることで、JRに収支採算性を保障し、結果、整備事業にJRが“乗る”形になった。これが投資採算性を覆い隠すためのマジックになってしまっている。
*12:「日本「鉄道」改造論―魅力ある交通機関の条件」川島令三,中央書院,1992.
*13:竹原信一「ブログ市長の革命」より。もっとも、九州新幹線のこの区間に関しては、在来線は線形が悪く、フル規格による大幅なスピードアップに大きな意義があった。あくまで、一般論と理解されたい。
*17:日本の代表的な鉄道情報誌は、"鉄道ピクトリアル"、"鉄道ファン"、"鉄道ジャーナル"の三誌である。
*18:「超・新幹線が日本を変える」ベストセラーズ,2008.
*19:平成6年12月14日の政府与党間合意(「永田町ビッグバンの仕掛人 亀井静香」大下英治,小学館文庫,1999.)
*23:「新幹線はもっと速くできる」川島令三,中央書院,1999.
*24:「鉄道再生論―新たな可能性を拓く発想」川島令三,中央書院,2002.
*25:前出の川島は前掲書,2008のなかで、このような新幹線列車を“超・新幹線”と呼称している。
*27:さらに次のことも知っておきたい。「収益調整の結果、東海道新幹線の乗客は本来の経費に加え、少なく見積もっても20%以上高い政策的経費負担を付加される形になっている。一言でいえば……本来あるべき運賃よりも20%割高な運賃を払っているのである。」(葛西敬之JR東海現会長著「未完の国鉄改革」より)
*30:「政府の失敗」の社会学―整備新幹線建設と旧国鉄長期債務問題の編著者である船橋晴俊法政大教授は、整備新幹線の財源を、国鉄債務相当の国債返済に充てるべきだとしている。
*31:年間の欠損は80年度に1兆0084億円に達し、75年度に対し937億円の増加となった。この前後の工事経費は毎年1兆円を越えており、東北新幹線がその4〜5割を占めた。毎年1兆円の欠損を出す企業が1兆円の投資をしていた(「新幹線軌跡と展望―政策・経済性から検証」(角本良平,交通新聞社,1999)より)。
*32:船橋ほか前掲書では“「断片的決定・帰結転嫁・無責任型」のシステム・主体・アリーナ型連動”と表現している。
*33:「鉄道総研の研究者が描く2030年の鉄道」(鉄道総研,2009)でも、この発想は触れられている。
*34:名古屋「正論」懇話会第7回講演会で八木秀次氏は「(民主党が掲げる「地域主権」は)地方分権とは似て非なるもので、300程度の基礎自治体があれば国はいらなくなるという、国の解体につながる考えだ」と述べている。出所は、産経の記事。
*35:「鉄道経営の21世紀戦略」第2部”鉄道に可能な道”第6章”21世紀の鉄道” 角本良平,交通新聞社,2000.
福知山線事故5年―「強制起訴」からは何も生まれない
予見性の存在に疑問
(2)JR函館線の半径300メートルのカーブで貨物列車が脱線転覆事故(96年12月)
(3)東西線開通に伴うダイヤ改正で快速列車の本数が著しく増加したことを認識していたこと
「適切に減速せずに」というのは、どの程度の操作ミスを指しているのだろう。事故当時の50キロオーバーなどというのは、「暴走進入」であり、「速度超過」というレベルではない。元国鉄マンである永瀬和彦氏(金沢工大教授)によれば、「単にうっかりミスでブレーキ時期を逸したことが原因で、カーブの制限速度を大幅に超過して脱線した事故例は皆無に近い。…そのような事例のほとんどは未熟な操縦、ブレーキ装置不具合又は飲酒に起因したものである」*11。また、尼崎事故のような電車運転は、貨物列車よりはるかに走行安定性が高く、上記(2)とは異なるタイプの事故である。このような「暴走進入」による電車転覆事故を予見できるだろうか。起訴した立場からすれば、「日勤教育によって、運転士にプレッシャーを与え、それが速度超過につながった」というのだろう。いわゆる日勤教育によって、運転手が暴走運転するケースが複数があったなら、予見できたかもしれない。だがそのような事実はない。鉄道事故調査委員会による最終報告書にも、そのような調査結果はない。
〈注意義務〉なぞ、存在したのか
結果責任の取り方と再発防止について
(※「過密ダイヤ」という記述は誤りであるという議論は、これまで散々指摘されている周知の事項であるから、深入りしない)
*1:産経新聞 4月22日「遺族アンケート刑事裁判、処罰よりも真相を」
*2:4月24日付朝日新聞に掲載された柳田邦男氏のインタビュー
*3:産経新聞 4月23日「【JR西強制起訴】「『ひそかな自信』にとどめて…」指定弁護士、弱気も」
*5:毎日新聞社説 3月29日分「JR歴代社長起訴 企業体質が裁かれる」
*6:産経新聞 4月23日「【JR西強制起訴】苦心の起訴も、終着点は『はるか遠く』」
*7:「検察審査会の本来の目的とは」郷原信郎,日経ビジネス5月10日 ※リンク先の閲覧は、日経ビジネスオンラインへの会員登録が必要です。
*8:読売新聞 4月24日「予見性、注意義務 争点に…JR西・歴代3社長裁判」
*9:ibid.
*11:永瀬和彦「福知山線事故報告書の問題点−意図的な調査と調査委員会設置法の主旨に悖る判断とを含むレポート−」
*12:毎日新聞 4月24日「福知山線脱線指定弁護士が会見 JR西歴代3社長起訴で」
*13:読売新聞 4月24日「予見性、注意義務 争点に…JR西・歴代3社長裁判」
*14:産経新聞 4月24日「JR西歴代3社長を強制起訴 福知山線脱線事故 業過致死傷罪で」
*15:神戸新聞社説 4月24日分「JR3社長起訴/真相の究明に英知を絞れ」
*16:産経新聞社説 4月24日分「福知山線事故5年 「考動」する社風の確立を」
*17:鉄道事故調査報告書「西日本旅客鉄道株式会社福知山線塚口駅〜尼崎駅間列車脱線事故」
*18:2.に同じ。
0系新幹線引退―ノスタルジーに浸っている場合か
44年間活躍した初代新幹線「0系」の定期運転最終日 JR新大阪駅に多くの人が集まる
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn/20081130/20081130-00000012-fnn-soci.html
細かいことを言えば、今日使用された車両が44年間走り続けていたわけではない。後継車両が開発されるまでの約20年の間、同型車両は廃車と新造を繰り返している。しかし、設計は殆ど1964年の東海道新幹線の開業当時と変わらないので、半世紀近く前の技術を未だに使い続けていることになる。高速鉄道の世界は、2007年に、フランス新幹線がついに時速300キロ超の営業運転を始め、日本の優位性は揺らぎつつある。これは、騒音問題など、実用にあたって要求される技術が、日本の方がハードルが高いことに一因があるが、それを考慮しても、高速輸送において半世紀前の技術を温存していることは、好ましい状況とは言えない。
初代新幹線の開発については、
「超高速に挑む―新幹線開発に賭けた男たち。」碇義朗,1993
「新幹線をつくった男―島秀雄物語」高橋団吉,2000
など多くの書籍が刊行されているし、近日では、インターネットでも幾つかの特集が載っている。
例えば、
「さよなら0系新幹線 44年の軌跡と5つの物語」
「初代新幹線「0系」:ゼロから作った安全 試験車の運転士語る」
これらの後塵を拝して、本稿で講釈を垂れるつもりはない。
例によって、沿線各駅で、目を覆いたくなるほど多くの鉄道ファンでごったがえしている。この異様な光景は、はっきり言って、「鉄ちゃん=キモい」というイメージダウンにしかならないと思うのだが、かくいう私も、0系が東海道新幹線から引退する時には、小田原駅に足を運んでしまった。10年以上前の話である。
そう、JR東海は、こんな旧型車両など、とっくの昔に駆逐しているのである。
それどころか、今回引退する0系の後継者である100系車両も、2003年の品川駅開業時に駆逐している。初代「のぞみ」用車両の300系も、初期に製造されたものは、とうに廃車が始まっている。今回のニュースは、JR東海と、JR西日本の経営体力・財務状況の差を如実に示しているのである。東海道新幹線しか使わないと、「まだ、だんご鼻の車両なんか走っているのか」と感じるだろう。
国鉄分割民営化後、黒字経営を維持できるのは、本州三社のみと想定された。
看板会社として想定されたJR東日本*1は、圧倒的な収益力を背景に、「成田エクスプレス」や当時在来線最高速の「スーパーひたち」、二階建てグリーン車を連結した「スーパービュー踊り子」、全車両二階建てのMAXことE1系、等の新型車両、駅ナカビジネス、さらには鉄道業界を飛び越えるイノベーションになったICきっぷSUICAなど、続々と設備投資をした*2。
JR東海は、あくまで減価償却の範囲ながらも、収益の8割を占める東海道新幹線に設備投資を集中し、2003年の品川駅開業を「第二の開業」と位置づけて、全列車の大幅なスピードアップを実現し、好調経営を続けている。
一方のJR西日本は、JR東日本、JR東海と比べて、分割民営化前から厳しい経営が見込まれ、実際、その通りになった。このことと結び付けた議論は慎重になされなければならないが、福知山線脱線事故まで起こしてしまった。
JR西日本は、京阪神間で速達性を武器に、競合他社に圧倒的な優位を確立しているし、対北陸輸送では、準新幹線とも言えるほどの高速輸送を実現している。また、速達性よりも快適性を重視するニーズに対応した「ひかりレールスター」の導入など、決して防戦一方ではない。
しかし、鉄道産業は、本質的に規模の経済が大きく働くため、市場規模が小さいと、どうしようもないのである。さらに、羽田空港や伊丹空港と異なり、福岡空港は博多駅から非常に近いため、JR東海と同程度の高速輸送サービスを提供しても、航空機に対して、競争優位を確立できない。
今後の市場の変化としては、2011年の九州新幹線の博多開業が挙げられる。整備新幹線推進の是非はともかく、これは必ず訪れる未来である。しかし、これをもってしても、劇的に経営環境が良くなる訳ではない。
情報公開はされていないが、在来線(山陽本線)と合わせると、山陽線は赤字ではないかと言われている*3。山陽新幹線を造らなかったら、中国方面の旅客輸送はジリ貧になっただろうから、建設自体が間違っていたとは思わない。しかし、JR西日本が、未だに「0系引退」なんていう設備投資の段階であることは、今後の整備新幹線の建設に関して、示唆を与えている。半世紀前のノスタルジーに浸っている場合ではない。